「歌壇」3月号「アンソロジー二〇〇九
 テーマ別私の一首」を読む。


毎年「歌壇」(本阿弥書店)3月号のテーマ別のアンソロジーを読むのを楽しみにしている。「選は創作である」と言ったのは高浜虚子だが、その年の自選1首となると選ぶ方もなかなか大変である。また、俳句の季語のように明確な分類ができないだけに、なぜこの歌がこのテーマに入っているのか考えさせられる場合も少なくない。しかし却ってそのような要素があることで、アンソロジーの楽しみ方が豊かになると言えなくもないだろう。

いずれにしても、短歌は俳句のように客観性に基づく分類は困難で、テーマやキーワードで分類したアンソロジーは主観性の産物であることを免れない。それは資料としての価値よりも読み物としての楽しみの方が中心になるものだろう。

さて、「歌壇」のアンソロジーから私が気になった歌についていくつか感想を書いてみたい。

ながくながく使ひし洗濯ばさみかなバカになつたと言ひつつ捨てる
大松達知

特に難しいところのない日常詠である。実感としてもすっきりと意味が伝わる。ただし、「生活」のテーマに分類されていたならばの話である。実際にはこの歌は「芸術・言葉」のテーマに分類されている。とたんに私は頭を悩ませる。そのまま字義通りに鑑賞したのでは「芸術・言葉」のテーマにはつながらない。そこで「洗濯ばさみ」は長い歴史を持った身近な言葉の比喩で、既に役に立たなくなって捨てられていく言葉へのアンビバレントな思いが込められているのかと想像してみる。また「洗濯ばさみ」を「歌の技法」の比喩と解釈したり、作者が愛着を持っているものとの別離を想像し、さらに作歌上の転機を比喩的に表現したものではないかと考えてみたりした。しかし最終的な結論を導くことができなくて、結局私の中では「生活」がテーマの歌として分類されてしまった。「生活」即ち「芸術」であると考えてみるのも一興であろうと思ったのである。もちろん、私の価値観とはまったく異なってはいるが……。
 「老い」のテーマでは次の2首が気になった。

ドアチェーン外さぬままにひとひあれ老いは明るき平家であれば
黒瀬珂瀾
蕎麦二枚啜りて終わる昼にして久しく女陰ほとの匂いを嗅がず
真野 少


1首目は太宰治の『右大臣実朝』の名言が踏まえられた歌である。「平家ハ、アカルイ。(中略)アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」この歌はこの名言を背景にして「老い」そのものを比喩的に詠ったものである。しかしこの歌の面白さはそのような解釈にとどまらない奥行きの深さを見せていることだ。例えば「老い」の対象を短歌と考えれば、歌の滅びを背後に暗示していることになる。また「芸術」「人類」「都市」「社会」「世界」など様々にその対象を入れ替えると、それに合わせて上句の意味が変容していく。「老い」そのものを詠った歌でありながら、それ以上に楽しめた歌である。

2首目はこの歌が「老い」に分類されていることから作者は高齢者なのだろうと想像する。この歌は「老い」というテーマが内在する奥行きの深さを示しており、下句のストレートな表現から立ち上るエロスは陰湿ではない。「老い」と「性」が歌の中で分かち難く結び付いている歌。

自選1首には作者自らが秀歌と思うか、あるいは何らかの意図をもって選出された歌が並ぶわけだが、連作の時代とも言われる現在、1首だけで屹立した名歌は作りにくい環境にあるのかもしれない。しかし、そのような環境にあって、1首で屹立している歌に出合うのはこの上もない喜びである。そのような歌の中から何首か選出してみたい。


夏の河の水のひかりは橋上をよぎれるときに網棚に射す
大辻隆弘
青瑠璃の羽を吹かれて葉のうへに張る脚ぢから小さく生まる
阿木津英
飲み方を忘れし父か生きむためコップ一杯の水に身構ふ
久我田鶴子
病むわれにただよふクラゲの親しくてクラゲのやうに身をゆらすなり
一ノ関忠人
スカートで自転車ぐんぐん漕ぎながら股間になにもなきことのさち
田中 槐
過ぎ去った「時」はいつでも夢を見る砂浜に忘れ去られた如露のような
柳澤桂子


1首目のテーマは「自然」。2首目は「生き物(動物)」。3首目は「家族」。4首目は「病」。5首目は「生」。6首目は「生活」である。その他に秀歌はたくさんあるが、今の気分で選んだのがこの6首であるということである。

このようなアンソロジーはそのときの気分によって選ぶ歌も変わってくる。それもまた一興であろうと思う。楽しみ方はいろいろとあるものである。



10/02/15 up
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