短歌の批評について考えてみませんか
――川本千栄への問いかけ、補記。


先日若い詩人の勉強会に参加させてもらった。詩の批評に関する私の年来の疑問を若い詩人に聴いてみたかったのである。疑問はごく単純なものであった。「現代詩、特にゼロ年代といわれる詩人のテクストの評価はどのように行われ、また、何を基準にして優劣を決定するのか」ということである。詩人の内部からこのようなことを質問する人はいないだろうから、野暮なことを承知の上であえて聴いてみた。

その答えは、詩の優劣を決定する基準のようなものはなく、印象批評が中心であるということだった。ある程度予想された答えである。テクストへの共感や反発を、自己の言葉によって表すところに詩の評価が生まれるということだろう。それならば詩の評価に関する意見が多様であることも、ごく自然なあり様として理解される。しかし、そのような批評の背後には、個々の基準に基づく言葉の裏づけがあることも確認される。それは自己の価値観の押しつけではなく、詩とともに生きようとするところから生まれてくるものである。個々の基準に基づいた、一回性の詩の形式とモチーフに対する批評のあり方が、個々の利害のコンテクストから還元され内在されているのである。ゆえにその基準はテクストと同時に更新され変容されてゆく。詩の評価は更新と変容が常態であって、ある固定的な価値観による提示は、詩の批評の文字通りの「死」を意味する。

短歌の評論を読んで難解だと思ったことはあまりないが、詩の評論を難解だと思ったことは多い。「言葉」を生きることの意味を極限まで突き詰めようとする詩を、文章化して説明しようとするのだから無理もない。詩の総合誌では分かりやすい詩の評論を見つける方が稀である。問題にするべきは詩を読むことで喚起される言葉とのスリリングな体験であり、その体験を自己の言葉によっていかに語るかにあるようだ。そのためには、詩を論じることが難解になることが既に織り込み済みのようにも思われる。

テクストと自己の体験に忠実になることが、難解な表現を取らざる得ないとき、それは詩をだしにして自己を語ることとは本質的に意味を異にしている。利己的な解釈と、テクストとの体験を追求することの意味の違いを理解しないところには、批評の本質的な意味は見いだせないだろう。

私が本連載で前回問題にしたのは短歌の批評のあり方だが、川本千栄が私の問いかけに答える前に、西巻真が純響社の時評で自分の意見を述べている。その時評に簡単に答えておきたい。

まず、『私は言葉だつた』はフランスのテクスト論とは何の関係もない。またテクスト論と言えるかどうかも疑問である。山中の初期テキストの構造を分析してはいるが、それはむしろオーソドックスな方法であって、テクスト論と明確にいえるようなものではない。必要なのは山中の初期テキストを分析するのに何が有効な方法であり、どのような分析を行うかである。拙著の「おわりに」でも強調したことだが、山中を巫女的な歌人という先入観から解放して、テクストそのものを分析することが拙著の主目的である。

拙著を批判するのならばその方法と分析の結果を具体的に取り上げるべきであって、「テクスト論」の一般的な見解を援用しても何ら批判にはならない。西巻の時評から引用する。


これは日本でテクスト論が一般化する前段階の、初期のフランス系のテクスト論者が述べていたような「表層との戯れ」と言い換えてもいいんでしょうか。


「表層との戯れ」という意味をもう一度確認して、拙著との関係性を明確にしてもらいたい。このままでは具体的な関係性が見えてこない。私は拙著から「表層との戯れ」という言葉は導き出せないと思っているが、西巻真には確信があるのだろう。


しかし、江田さんの言説に代表されるような、時代遅れの、今さら感のある「テクスト論」が短歌の世界で先鋭的になっちゃうことが一番、短歌にとっても危機なんじゃないの?


私は何も代表していない。山中の初期テクストとの対話を行っただけである。私は拙著を西巻のいう「テクスト論」であるとは思わないが、もしそれが先鋭的だと受け取られ、短歌にとっての危機がそれよって訪れればむしろ本望だと思っている。その方が短歌への希望が生まれる。もちろんそのことへの反動を含めて言っているのである。しかし、そのようなことは絶対にないし、山中の初期テクストで行った方法をそのまま私が他のテクストに援用することもない。このことは大事なことなので繰り返し強調しておく。テクストが批評の形を決めるのであり、その逆ではないと言うことだ。少なくとも私の批評の姿勢はそうである。そこに、批評の方法論に関する新旧はない。ことさらに批評の方法の新旧を問うこと自体が無意味だ。

短歌を創作したり評論を書くときに読者をまったく無視して行われることは現実的にはあり得ない。創作者自身の内部の読者を別にしても、読者を初めから一切無視することはできない。ただし、創作や批評という行為に読者を意識しないということはあり得る。私が言っているのは意識しないことであり、無視することではない。その点誤解のないように書いておきたい。私には信頼している読者が何人かいる。もちろんその読者を意識して評論を書いているわけではない。しかし、私が書いた分析に対する誠実な批評を受ければ、それがたとえ批判的な内容であっても感謝する姿勢を忘れたくはない。

表現者にとって読者が大事な存在であるのはいうまでもないだろう。ただし、読者を意識して分析の内容を分かりやすくすることが、私とテクストとの対話に齟齬をきたすようならば、私は難しい表現を厭わない。

それは本の性格による側面もあるだろう。以前、短歌の入門書を書いたときには明らかに対象となる読者を意識し、なるべく分かりやすい表現を心がけた。これはこの本がこれから短歌を作ろうとする初心者をターゲットにした商業出版であったからである。


「わかりやすさ」だけで言ったら、たとえば穂村弘さんの『短歌の友人』はものすごくわかりやすいじゃないですか。最近あちこちで見受けられる穂村さん発の「短歌のOSの変化」とか、内山晶太さんが最近また「短歌現代」で新たな用語を開発したらしいですが、「サプリメント化した世界」(「短歌現代」2010年3月号)とか。こういった批評用語は、正直、内容の善し悪しは置いておいて、キャッチ-でわかりやすいですよね。(中略)

今、短歌の世界に蔓延しているのは、むしろ、こんな「かたっくるしい文章は嫌だ」と言う風潮なんじゃないですか?

だから、サプリメント化とか、OSの変化とか、様々なたとえを使って「うまいこと言った」的な批評用語が続出してるんじゃないでしょうか?
                                 (前掲、純響社「時評」より)


西巻が言うように、今の短歌の世界に堅苦しい言葉を厭う風潮があるのかどうか私は正確には把握していない。しかし、「風潮」という言葉を安易に使うのは適切ではないように思われる。

穂村弘や内山晶太が読者に分かりやすい批評用語を作ることが、テクストを正確に読むことに寄与するならば歓迎されるべきものであるだろう。また、彼らの文章を切っ掛けとして歌人を越えて短歌への関心が高まれば幸いである。ただし、私や川本が問題にしているのは穂村や内山の批評用語とは問題の所在が違っている。彼らの批評用語に関しては状況論的な問題と同時に考えられなければならない。

最後に西巻真に質問したいのだが、あなたは短歌の批評をどうあるべきだと思っているのだろうか。また、自分はどのような批評を目指しているのか、その点についての率直に答えて頂きたい。

実は本日の青磁社の「時評」で松村由利子が、私と川本、そして西巻の文章を取り上げて自分の考えを述べている。この文章についても触れるべきであろうが、今回は紹介だけにとどめておく。ぜひ参照して頂きたいと思う。今後生産的な議論がなされることを願っている。



10/03/29 up
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