柴田千晶詩集『セラフィタ氏』を読む。

(2008年2月:思潮社/2520円)

短歌と詩のコラボレーションの成功と失敗は何によって計ることができるのだろうか。

実験として短歌と詩がコラボレーションされることは珍しいことではない。しかし、歌人と詩人がコラボレーションを試みたものが一冊の詩集として出版されるのは稀なことである。その意味では、柴田千晶の新詩集『セラフィタ氏』はとても興味深い。

『セラフィタ氏』は、〈セラフィタ〉と名乗る人物から突然メールが届いた派遣OLの生の葛藤が、「私」探しの虚構スタイルを借りた深層心理劇として巧みに描かれている。内的な他者とのダイアローグが幻想的な心理の襞をなし、性愛への欲情を通した生の傷みは、密度の濃い言葉が織りなす散文詩として構築される。

『セラフィタ氏』には、歌人の藤原龍一郎の短歌が詩の全体にわたって挿入されている。この挿入によって、柴田は詩の内部に藤原という他者を胚胎することになる。

このような試みがコラボレーションとして成功していると言えるためには、詩と短歌の相互が切り離すことのできない必然性を内包していることを証明しなければならない。

私がこの本を最初に読んだときの印象は、藤原の短歌が柴田の詩の言葉に感応してゆく濃度が次第に増していくということであった。初めは見られなかった詩の言葉の引用も途中から行われる。その結果、後半になるに従って短歌と詩のシンクロ率が増し、短歌の独立性は稀薄になってゆく。それにより、短歌は詩の世界に同化していくことを余儀なくされ、短歌と詩が相互の世界を切り結びながらイメージを重層化させる言葉の強度は弱まる。しかし、逆に短歌と詩の相互の世界が融合し昇華することにより、コラボレーションの完成度が増してゆく。

藤原の短歌に柴田の詩の世界が浸透していく様子は、短歌の言葉の変容から感じ取ることができる。しかし、藤原の短歌による柴田の詩への影響を指摘することは容易ではない。
例えば、第一編「セラフィタ氏」に次の歌がある。

 透明なガラスに人の気配して気配のみにて窓が拭かれる

この歌は、主人公の派遣OLがオフィスで仕事をしている場面に挿入されている一首である。オフィスビルの窓を拭いている清掃作業員の気配を、主人公が背後に感じているところだろうか。実はこの歌の数行前にこのような詩句がある。

 眼が乾く
 何処に居ても
 眼が乾く(外気に触れたい)
 (外光を浴びたい)
 誰といても
 眼が乾く(言葉を交わしたい)
 (性交したい)

この詩句があることによって、先の歌は、主人公の願望や情欲とシンクロする情景に変容する。その情景は外部と内部の境界を無化し、エロスを内包した身体性を詩の内部に引き込む機能を帯びる。しかし、あくまでも短歌の世界の独立性は保たれたままである。私はそこに、藤原が柴田の詩句に感応した初めのありようを見る。

では、柴田はこの短歌に対してどのような反応を見せただろうか。少なくともこの詩篇においては直接的な反応を見せてはいない。その反応は第四編「熱の島」に突然表れる。それは、夢の中で藤原さんと生まれた町を歩いた後の場面である。

夢の中で私は知らない男と性交している。はじめ男は「藤原さん」だった。今はまったくの別人だが、でも男はかつてどこかで会ったことがある人間なのかもしれない。例えばどこかの郵便局の窓口にいた男、いや九階のオフィスの窓を時おり拭きに来る清掃員だったかもしれない。


この詩句に「九階のオフィスの窓を時おり拭きに来る清掃員」が現れるのは偶然ではない。それは、先の藤原の短歌がなければ登場することのなかった「男」である。藤原の短歌によって柴田の詩に一人の「男」が内蔵される。これをもって柴田の詩に藤原の短歌が影響を与えていると言うにはためらいがあるが、短歌と詩の相互のあり方の一端が垣間見えるのではないだろうか。

藤原が柴田の詩の言葉に直接感応しているのに対して、柴田は藤原という他者を短歌の言葉とともに詩の内部に引き入れることで、モノローグ性の強いマチエールへと変容させている。

また、藤原は柴田の詩のモチーフを阻害しないように注意を払いつつ、詩の世界を外部に向けて開く試みをしている。

 オノレ・ド・バルザックなる作家居てアルジャーノンはネズミの名です

第五編「スケアクロウ」

 ノイズかもしれず聖痕かもしれずセラフィタ・セラフィトスなる闇は

柴田は詩の中でバルザックの『セラフィタ』に一言も触れていないが、藤原がこのような歌を創ることで、柴田の詩に登場する〈セラフィタ〉氏には、イメージの重層性が加味される。さすがに、〈セラフィタ〉氏とセラフィタ・セラフィトスを直接繋げることはナンセンスだが、セラフィタ・セラフィトスが両性具有であり、現世の恋を拒否して最後に天使として昇天することは、この詩を読む上で興味深いものがある。

また、そこから敷衍して〈セラフィタ〉氏を男性性と女性性が分かち難く融合された情欲を内包する内的な他者として措定できる可能性がさぐれないだろうかと考えてみたりもする。しかし、それは早計すぎるようである。
次回もこの詩集を読んでみたい。


08/05/12 up
08/05/12 pm10改訂
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