子規のストーブ(5)
子規の燈炉
>先日、ある方から「子規博だよりVOL4-1」(昭和59年発行)をいただいた。大変ありがたいことに、ここには子規研究家古賀藏人氏による「子規の『燈爐』」という文章が掲載されているのである。書き出しはこうだ(「湯婆燈炉室あたゝかく読書哉>明治三十二年」「凩や燈炉にいもを焼く夜半>同三十二年」)という二句を引いて)。
>この「燈炉」と呼ばれた石油ストーブは、東京とは言えまだ電灯も水道も来ていなかった上野の山の上根岸の子規庵に、初めて招来されたような生活文化であった。

>氏によれば、この燈炉は、明治32年12月にホトトギスより贈られて以来、翌年の暖炉据付までの約一年間を主に活躍したようだ。石油代が嵩むことも、暖炉にとってかわられた理由のひとつのようである。子規と親しかった画家の中村不折が燈炉のための石油を贈ってくれたこともあったようで。ということは、「燈炉」は明らかに石油ストーブなのであった。
>驚いたことには、この燈炉、昭和8年に火災で焼失するまでは、現物が残されており、古賀氏ご自身が実際に目にしているというのである。そのときの氏の見取り書きは以下のようなもので。
「高さ一尺五寸くらい。外側の意匠が大変精緻である。上半部はくり抜きの桐の模様、下は浮き彫りの牡丹と桜と孔雀、下部の取っ手も牡丹の花と葉の形に出来ていて、すべて唐金作りである。よく見ると下部の牡丹、桜、孔雀の模様の下に次の小文字が見える。『特許甲乙弐00七号、明治二十六年七月十一日向十五年間、発明人伊藤忠藏、製造所東京市下谷区上根岸八番地日本乾燥合資会社、売捌所京橋区竹川町二番地』」

>ずいぶん洒落たつくりのようである。書き写された「小文字」の部分から、氏はその「特許明細書」にたどりついている。そこには詳細な図面もあった(上図)。氏がいっしょに紹介している、画家中島菜刀のスケッチと子規自身によるスケッチを合わせて見ると、燈炉が現代の石油ストーブと大変よく似ていることがわかると思う。
>「燈炉」という名についても氏の考察は及んでいる。もともとこれが、子規の造語であるか否かで議論はわかれていたようだ。土屋文明には次のような歌があって、
>子規如何に涅槃経より盛火器を燈炉と知りて取り用ゐしや>>昭和41年作
>また、文明は「アララギ」の連載、「子規俳句合評」においても「燈炉といふ句は仏典か漢籍に見える字面だから、子規がそれを取り用ゐたのであらう。」と言っていた。
>けれども氏は、そんな難しいことでなしに、先の特許明細書に「爐(燈兼用)」とうたわれ、図面の構造からもランプとストーブの合の子のようであることから、発売者みずからが、呼んだものであろうと言う。前回ご紹介した漱石宛書簡の中で子規が「燈炉といふを買てもらひ」と記している言い方も、「そこで釈然とする。」と言うのである。
>私が印象に残ったのは以下のくだりで。
>そうではあるけれど子規は、燈炉の句の詠みぶりなどを見ると、その名の響きが気に入りもしていたようである。
>研究家としての考察というよりも、氏の個人的な推察であるのだが、それだけに重要な指摘と思う。そして、私もまた子規の使う「燈炉」という言葉に子規の生き生きとした喜びの表情を見るのである。
10/03/15 up
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