子規のガラス戸(4)
ガラス戸の歌2

前回は子規のガラス戸の歌を制作順に3首紹介した。今回はその3首目「いたつきの……」の歌を含む「ガラス窓」という連作を紹介したい(便宜上番号を振る)。



1 いたつきの閨のガラス戸影透きて小松の枝に雀飛ぶ見ゆ
2 病みこやす閨のガラスの窓の内に冬の日さしてさち草咲きぬ
3 朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れと飽かぬかも
4 冬こもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ
5 ビードロのガラス戸すかし向ひ家の棟の薺の花咲ける見ゆ
6 雪見んと思ひし窓のガラス張ガラス曇りて雪見えずけり
7 窓の外の虫さへ見ゆるビードロのガラスの板は神業なるかし
8 病みこもるガラスの窓の窓の外の物干竿に鴉なく見ゆ
9 物干に来居る鴉はガラス戸の内に文書く我見て鳴くか
10 常伏に伏せる足なへわがためにガラス戸張りし人よさちあれ
11 ビードロの駕をつくりて雪つもる白銀の野を行かんとぞ思ふ
12 ガラス張りて雪待ち居れはあるあした雪ふりしきて木につもる見ゆ
13 暁の外の雪見んと人をして窓のガラスの露拭はしむ


こうして並べて見てみると結句が「見ゆ」の歌が多いことに気づく。ちなみに、前回紹介した3首も、

にひ年の朝日さしけるガラス窓のガラス透影紙鳶上る見ゆ
鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ
いたつきの閨のガラス戸影透きて小松の枝に雀飛ぶ見ゆ


ということで結句がいずれも「見ゆ」であった。これについては、また別の機会に少し触れたいが、まずは一首ずつ見ていこうと思う。


2 病みこやす閨のガラスの窓の内に冬の日さしてさち草咲きぬ


「さち草」は福寿草のこと。この連作のすぐ後には「鉢に植ゑしことぶき草のさち草の花を埋めて雪ふりにけり」という歌もあり、観賞用に鉢に植えられていることがわかる。また、雪に埋もれる、というのだから外に置かれている。ただ、鉢であれば移動が可能なので、2の歌では、鉢を室内に置いていたのか、あるいは屋外に置いていたのかで、歌の読みがかわってくる。私は、後者でとりたい。「窓の内に冬の日さして」という、室内と、窓を透して見える屋外の景色の両方を描くことで、ガラス窓の特性が自然描き出されているように思うからだ。「さして」「さち草の」「咲きぬ」というサ音の頭韻が、それ自体ささやかな幸いを感じさせる。ガラス窓であるゆえに、子規のいる室内にも、屋外の「さち草」にも同じ「日」がさしているのである。


3 朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れと飽かぬかも


前回の3首では「ガラス透影」「ガラス張窓影透きて」「ガラス戸影透きて」というようにわざわざガラス窓を透して風景が見えることを断わっていたのに対し、この歌では、「ガラスの窓によこたはる」と、もっと直接的に見えるものを捉えていて印象的だ。

また「ガラスの窓によこたはる」という表現は面白い。山や風景がよこたはっている、という云い方はあるいは珍しくないかもしれない。ダイナミックな風景が想像される。しかし、「ガラスの窓によこたはる」といわれると、寧ろガラス窓の四角い枠のほうが意識させられる。そのために、風景が平面的になり、絵画的空間として感じられるのだ。今ではこのような枠としての窓の捉え方は常套的でもあるけれど、「ガラス透影」の歌から何首もおかずに、このような斬新な詠い方に転換しているところ、興味深い。


4 冬こもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ


この歌は既に紹介していて(「子規のガラス戸(2)ガラス障子の効果―暖かさと見えること」)、繰り返しになるのだが、「拭う」という行為を挟むことで、室内と屋内を結ぶガラス窓の存在感が際立ってくるし、「拭えば」という過程を描くことで、そこで見えてくる「足袋」をより鮮明にもしている。そして拭った結果見えたものが「足袋」が干されている、といういかにも瑣末な光景であるところが面白く斬新である。

岡麓は著書『正岡子規』の中で、この時の子規の様子を回想している。



明治三十三年の一月末のある日の午後、私は先生をおたづねした。しばらくして先生が「歌をよまうか、このガラス戸を題にして写生をしよう」といはれた。やがて発表された詞書に
わが病室の障子にガラスを張りてガラス障子の歌よみける中に
とあるこのガラス戸から外が見えるのに興を覚えられたらしかつた。一つにはまた私に写生といふ実際教授をして下さらうとなされたのでもあつた。暫時無言、ガラスごしに景色を見てをられたが、原稿紙へすらすらと書きつけられる。先生は歌でも句でも文章にしても、あたまのなかでまとめてから書きつけられる。(めつたに書きなほしをされない。先生の原稿ぐらゐ、読みよく、きれいなのは稀であつた。)私にはつかみ場所がなく、困つてゐると、先生はすらすらふえて行くのだつた。私は閉口してしまつた。すると「お見せなさい」と私のととりかへて渡された。(略)私が先生の歌を拝見してゐると「君なら足袋干せるなんぞいはないだらう。紅梅の花とでもいふだらう。」と苦笑された。

「苦笑された」というのは岡麓の表現であって、私にはいかにも得意げな子規の様子が窺えるように思うのだ。




10/08/15 up
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