マッチの歌(1)
空間を演出する道具としてのマッチ

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修司『空には本』

マッチ

マッチという小さな照明(この場合)によって空間を際やかに描き出している。
真っ暗な海辺にマッチを擦った瞬間、ごく自分の近辺に浮き上がる霧。闇よりもより茫漠とした、よるべない感覚を起こされるようだ。甚だ暗喩的でもある。
しかしこのよるべなさは一方で戦後独特の開放感でもあったと言えるのではないか。

「身捨つるほどの祖国はありや」にはアナーキーさとも違う、こう言い放ってしまえる何かがある。ポーズに過ぎぬような奇妙な軽薄さである。

現代ならば「身捨つるほどの企業はありや」となるところかもしれないが、そのニュアンスはだいぶ異なるであろう。実に戦後の少年寺山らしい一首である。

この歌は、マッチによる空間の立ち上げ方において次の石川啄木の歌を意識してつくられたものではないかと思う。

 マチれば
 二尺にしやくばかりのあかるさの
 なかをよぎれるしろのあり

石川啄木『一握の砂』

「二尺ばかり」という具体的な記述が啄木らしい。二尺というと径60センチというところか。その空間を飛ぶときにのみ、蛾は「白き蛾」となる。語順が「白き蛾がよぎった」ではなく「よぎれる」を先に置いて「白き蛾のあり」という知覚を遅れて出すことで、蛾がよぎったときの一瞬の感じとそののちの「白」の余韻が残る。三次元的な空間だけでなく時間的な空間をも立ち上がらせているのである。

 意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ

岸上大作

この歌はいわゆる60年安保を背景とした作品であり、「マッチ擦るのみ」という行為が読み込まれているところには、これより少し前に登場している寺山の影響を見てとることができるだろう。

寺山の歌では、「マッチ」という小さなものと「海の霧」という広大なものとのコントラストが際立ち、マッチを擦る人の孤立した映像が印象的に立ち上がる仕掛けとなっている。

この岸上の歌でもマッチは、安保闘争の折の社会的な気運を背景に、大衆と個を対比的に立ち上げる小道具として機能している。「背」という描写が入ることで、マッチを擦る行為の身体を丸めるような姿勢までもが連想され、大衆に対する内的な個の在り様がより鮮明になっている。

時代の風潮は否応なく個人へのプレッシャーとなって迫り来る。
「意志表示せまり」の「せまり」は普通に読もうとすると不自然である。もしこのままに主語を補おうとするならば「私は意志表示をせまり、声のない声を背に、ただマッチを擦る」となる。しかし、「せまり」は「せまる」つまり「声なきこえ」を主語として読むべきだろう。このほとんど無理やりに近い「せまり」という語法によって切迫感が表現されているように思う。

マッチは啄木の歌の時点では、実景としての、空間を立ち上げる効果をもたらしたわけであるが、寺山や岸上の歌ではより意識的に、個と外界という象徴性を描き出すための小道具、あるいは演出として用いられているところ、興味深い飛躍である。


(挿画も著者)

08/05/15 up
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