中島裕介歌集『Starving Stargazer』を
読む、その2。
(2008年11月:ながらみ書房/2100円)
>この歌集は気になる歌にこだわり始めると、幾重にも謎が折り重なってくる。例えば歌集の最後の歌には、次のようにT.S.エリオットの『荒地』が読み込まれている。
少年は校舎から飛び去ってゆく『荒地』に栞を挟んだままで |
>この奇妙な歌をうまく解釈する自信が私にはない。しかし、このテクストは掉尾の歌としての終幕感を内在しており、その意味ではこの特異な歌集の世界を閉じるのに相応しい歌であると言えなくはない。また、上句には少年期の終焉が暗示されているという解釈も可能だと思われる。ただ、暗示という意味でなら、下句を含めた1首全体が暗示するものを想像してみる方が稔りがあると思われる。
>それにしても、中島が最後の歌にエリオットの『荒地』を読み込んだことは興味が尽きない。特に『荒地』の最終章、「V.雷の言葉」の最後の二行は次のように終わっている。
Datta. Dayadhvam. Damyata.
Shantih shantih shantih
ダッタ。ダヤドヴァム。ダームヤタ。
(施せ) (憐れめ) (制御せよ)
シャーンティフ シャーンティフ シャーンティフ
>「シャーンティフ」は、『ウパニシャッド』の末尾に置かれる定型句。
>「この言葉の反覆は,主人公に対する励ましと祝福の声であろう。救いはもたらされなかったが,未来への可能性の形で示されているわけである。」(『荒地 ゲロンチョン』福田陸太郎・森山泰夫注解 1972年増補版 大修館書店刊) この2行は遠離っていく雷の声を指している。
>前稿で指摘したように、中島が試みる英語のテクストは、主に頭韻を活かしながら言葉が次の言葉を呼び起こすように繋げられ、言葉の重なりや、言葉の拡散が表出する表現効果を見出すことができる。私はそれをマラルメの表現方法である類質同形性を自由に拡大解釈した中島の詩的実験ではないかと考えた。
>しかし、『荒地』にこのような詩句があり、先の歌から中島が『荒地』を読んでいると仮定した場合、二つのテクストに見られるアナロジーをまったくの偶然であると無視することはできない。もちろん、言葉と詩句の意味的な次元から言えば、『荒地』と中島のテクストとの間には有機的な関係性はない。また、『荒地』が内在する「伝統」の観念と中島は無縁であり、そのような面からは、むしろ反『荒地』な側面の方が強いといった方がいいだろう。影響はあくまでも表層的なレベルにとどまるものだ。それについては先に引用したテクストが暗示している言っては深読みに過ぎるだろうか。
>『荒地』には多くの古典からの引用やパロディーが内在されており、対立するイメージやモチーフのシュールなコラージュが特徴の一つになっている。その点も中島のテクストを考える上で考慮に入れる必要がある。
階段の初めに言葉ありき、そんな眩暈を合図に君とさよなら |
Memement “Memento Mori”, il n’y a pas de mot, ni de mort |
2005年3月、「認めたくないものだな」 |
星型のピアスを失くした僕たちの喧嘩の最中、逆襲の「「じゃあ…」」 |
大学4年1月、ポケットの中の戦争 |
指相撲に人差し指を使われて負けても今を寿ぐ |
かつてトゥーランドットだったけど、誰も目覚めてはならぬ朝来る |
婚姻は我の変身! 過負荷でも王をも超えた御業をなさむ |
>1首目、「ヨハネ伝福音書」の「初めに言葉ありき」と、ラテン語の「“Memento Mori”」が印象的な対応をなし、「さよなら」が別離と死を暗示する。
>2首目、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を歌に読み込んだ遊び心。
>3首目、詞書きに「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」を配し、トゥーランドットの有名なアリア「誰も目覚めてはならぬ」を挿入し、さらに、「変身」から「過負荷(カフカ)」、「王」から「ロード・オブ・ザ・リング」を引き出す遊び心と手際の良さ。
>このように、中島のテクストは引用やパロディー、ナンセンス、アイロニーが重要な要素として機能している。
>2首目、3首目はいささか悪のりが過ぎるが、中島のこのような試みは、戦略的な様式の実践に基づくものである。その戦略的な様式とは、中島が「あとがき」に書いているように〈私性に拠らない短歌〉〈他者と共にある短歌〉を求めるところからもたらされている。
>中島のテクストに見られる言葉のコラージュは、複数の他者をテクストの内部に呼び込むために実践されているのである。そして、そのような様式の実践がうまく昇華するためには、間テクスト性が充分に機能していなければならない。テクストが「私」性を中心に自己充足することなく、テクストの内部に他者の戯れを喚起し作動させなければならないのだ。
>その意味では、先に引用した3首のテクストの中では、1首目のテクストが中島の意図に即した成功作であるだろう。しかしそれは、通常の短歌の価値観からは逸脱している。
>この歌集には次のような歌も収載されている。
散り終えた黒き花弁を踏みしめる僕は、例えば閉めかけの螺子 |
抜き切れず横から叩き倒された釘としてただ口を噤んだ |
ビル影で生きている黒猫からも過去に囲まれた僕は見えない |
>これらのテクストは、先の3首とは違い通常の短歌の価値観によって評価できる歌である。テクストの内部に「私」性が濃厚に内在しており、一見中島の創作の意図に反している。しかし、私の「物語」を自ずから語っているように見えるこれらのテクストが、却って歌壇では評価されるのではないか。中島にとっての意志的な短歌創作は、文字通り困難を引き受ける苦難の道である。今後も中島の創作がアナーキーなものであることを切に願いたい。
>この歌集についてはまだまだ言いたいことがあるが、最後にバーバラ・ジョンソンがマラルメについて論じた一節を引用してこの稿の結びとしたい。
>マラルメは間テクスト性を、複数のテクスト間の関係として作動化させるのではなく、それをテクスト内の隔たりや間断の戯れとして作動化させる。
(『差異の世界――脱構築・ディスクール・女性』1990年 紀伊國屋書店刊)
>中島の戦略的な間テクスト性に基づくテクストが、マラルメの方法とアナロジーを持っていると安易に考えているわけではない。しかし、中島が果敢に試行する実験的な短歌に、マラルメにおけるこのような方法が何かの参考にならないかと思って敢えて引用したのである。
奄奄たる規則、蜿蜒と続く葬列。炎々たる受胎の明けに |
Il y a deux medicament et une ville. Il n’y a pas un film. |
演劇は人生のリハ、人生は演劇のリハ ならば全ては |
09/03/16 up
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