『寺山修司の俳句入門』を読む。

 (2006年9月:光文社/660円)


寺山修司の「俳句入門」を読んでいると次の言葉があり考えさせられた。(文章の引用はすべて同書による)

俳句はあくまで〈私性〉の文学であり、個の意識でも、個の体験でも、選択した対象をどこまで普遍化できるかに全てが賭けられているのである。ここでこそ現代詩以上に潜在的な様式をもつジャンルの自覚をあらためることが要請される。
                       「前衛俳句批判」(「俳句」一九五八年三月号)


この文章を読んだときの私の驚きは2点に集約される。1つ目は、寺山が俳句を〈私性〉の文学と規定している点。2つ目は、〈私性〉の観点から俳句と短歌を寺山はどのように区別していたのかという点である。少なくともこの文章を読む限りは、俳句のところを短歌と置き換えても意味が通り、むしろそちらの方が自然にさえ私には思われるのである。

この文章を書いたとき、寺山は22歳、同じ年の6月には第1歌集『空には本』を刊行している。既に俳句から短歌に創作の主体を移した寺山によって書かれた俳句論の一節であり、その意味でも興味深い。

また、翌年の「俳句」にも同様に俳句を「私性」の文学と規定した次のような文章がある。

僕は俳壇での大切なことは、この「個」、言い換えれば「私」性の文学としての俳句が現代でも多数の人間のなかで生きうるかということだと思っている。自我の追求は今ではある意味の不毛地帯でさえある。とすると「私」性文学は「個」を解釈したり、追求するかではなく、「新しい個」の像を生むことではないか。リアリズムは方法論であり無論大切なことだが、俳句という純粋詩のありかた、実作者たちの世界の選択だけがリアリズムの種類を決定するのは自明のことであるのだ。
          「俳句とリアリズム――落差からの出発」(「俳句」一九五九年四月号)



この文章も俳句について書かれていながら、当時の短歌の説明として通用するように思われる。さらに、寺山自身の進むべき短歌の道を示した言葉として理解してもそれほど不自然ではないのではないだろうか。

寺山は高校生時代に俳句創作に熱中していた頃、俳句と同様のモチーフの短歌を創作している。以下に3組を例示する。


父と呼びたき番人が棲む林檎園

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

 

ラグビーの頰傷ほてる海見ては

ラグビーの頰傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに

 

夏井戸や故郷の少女は海知らず

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり



寺山の初期の短歌は明らかに俳句の延長線上で作られたものであり、むしろ、そのことが寺山の短歌にそれまでの短歌にはなかった清新さをもたらしていると言っても過言ではない。しかしそれは、寺山が俳句をあくまでも〈私性〉の文学であると規定したことから、もたらされたものではないだろうか。つまり、寺山は既存の俳句観から自由であることで俳句に「私」性の問題を見いだし、結果的に詩型の枠を超えたところで、俳句ではなく短歌の方に「新しい個」の像を生むことにより成功したのではないかと思われるのである。

例えば先に引用した寺山の俳句と短歌を比べてみれば、短歌の方が完成度が高いのは明らかである。そしてこれらの俳句は、「新しい個」の像が短歌として完成するための過渡的な形態のように思われる。

「私」性の問題の追求を俳句によって始めた寺山が、短歌によってその答えを見出し、現代短歌に新生面を開いてゆく。その意味では寺山の俳句創作は短歌に到るための習作期間であったと言えなくもない。もちろん、それは結果から遡行した見解に過ぎない。ただ、寺山が俳句から短歌に創作の場を移行することは、ごく自然な成りゆきであったと理解される。少なくとも「私」性の文学である俳句に「新しい個」の像を生むという寺山の文学観からは、そのような見解が導き出せるだろう。

寺山の「俳句入門」には、「ロミイの代弁――短詩型へのエチュード」と題する、作中人物に仮託して寺山が短詩型観を述べたユニークな文章が収載されている。その中で寺山は自分の俳句と短歌を例に挙げながら、次のように書いている。


ところである一人の作者が、いわゆる韻文ジャンルを駆使できることの必要を前提として、一つのエモーションを俳句と短歌の両ジャンルで作る場合がある。
 たとえばぼくの作者の場合がそうである。

>>チェホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き
という俳句の中でのぼくはやっぱり窮屈でしょうがなかった。
ぼくは永い間、ぼくの作者寺山修司にこのことの不満をぶつけつづけたが、彼はやつとそれを次の歌に展開させてくれたのであつた。

>>籠桃に頬いたきまでおしつけてチェホフの日の電車にゆらる
こういう意味では
>>桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩
はやや冗漫にすぎていたのだが、ぼくの作者は
>>桃太る夜は怒りを詩にこめて
とそれを引締めている。
このようにイメージをちぢめたりのばしたりして一つの作品を試作してゆくことは既成の歌、俳壇ではインモラルなことと受けとられるらしいが、しかし至極ぼくには当然のことのように思われる。
                             (「俳句研究」一九五五年二月号)


この文章が書かれたのは寺山が「チェホフ祭」により短歌研究新人賞を受賞した翌年である。一つのエモーションを基にして、俳句でも短歌でも自在に駆使できることを披瀝している文章だが、寺山の言葉に反してどちらも短歌の方が完成度が高いように私には思われる。

寺山は、「私」性の文学に「新しい個」の像を生む、という課題を立てた時点で、短歌に於いてその実現を目指すことが運命づけられていたのではないか。寺山の「俳句入門」を読みながら、そのような感慨が私の頭を過ぎって行った。

しかし、話はそれで終わるわけではない。晩年の寺山は短歌よりも俳句に可能性を見出す発言をしている。この「俳句入門」にはその発言が載っている柄谷行人との対談も収載されている。生前発表することがなかったとは言え、寺山が最晩年にも短歌を作っていたことを思い合わせると、寺山の以下の発言は軽く読み過ごしていいものではないだろう。

寺山短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられるようなところがある。同じことを二回くり返すときに、必ず二度目は複製化されている。マルクスの『ブリュメール十八日』でいうと、一度目は悲劇だったものが二度目にはもう笑いに変わる。だから、短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまう。ところが俳句の場合、五七五の短詩型の自衛手段として、どこかでいっぺん切れる切れ字を設ける。そこがちょうどのぞき穴になって、後ろ側に系統樹があるかもしれないと思わせるものがあるんじゃないかな。俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌ってのは回帰的な自己肯定性が鼻についてくる。
(「別冊新評寺山修司の世界」昭和五十五年四月柄谷行人氏との対談「ツリーと構想力」より)



09/07/27 up
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