森井マスミ評論集
『不可解な殺意』を読む、その3。

 (2008年12月:ながらみ書房/2730円)


森井マスミは「文学を支える基盤である『私』自体が、近代的な『私』から、ポストモダン的な『キャラクター』へと移行していく中で、こうした状況を食い止める可能性を探るとすれば、前者を機能として構造的に回復していくか、後者に方法としての批判性を見い出す(ママ)か、そのいずれかによるほか方法はないであろう。」という見解を「文学の残骸――オタク・通り魔・ライトノベル」で示している。

森井はここで近代的な「私」の復活を全面的に肯定しているわけでも、ポストモダン的な「キャラクター」への移行を全面的に否定しているわけでもない。時代のコンテクストがもたらす制約と切り離して、短歌における「私」の問題を語ることの不毛さを森井は自覚している。それゆえにどちらの方法によるにしても、その方法の内部に、文学表現とは何かという「批評性」を内在していなければ意味がないことを示そうとしている。その上で、短歌における「私」の甦生と新たなる創造を指向していると言ってもいいだろう。

森井が多様な間テクスト性の戦略を実践するのは、先の見解に基づいた短歌における「私」の新たなる創造に通底する。少なくとも私はそのように森井の歌を読む。ただし、そこにアポリアが胚胎していることも確かである。それは、森井の見解と実践の問題というよりも、むしろ規範的な短歌批評の強固な壁に、森井のテクストが曝されたときに露呈する。

それを私が象徴的に感じたのは、森井の第1歌集『ちろりに過ぐる』の吉川宏志の栞文を読んだときであった。吉川は森井のテクストを、シミュラークルの方法論による従来の「私」を挑発する歌であると規定し、森井が三島由紀夫の『近代能楽集』の一篇「班女」をプレ・テクストして、ヒロインの花子に成り代わって詠った歌について、次のような感想を記している。

とひを打つ雨あのひとのにほひからわたしの影を消してゆく、あめ

のように、恋人を長いあいだ待つあまり、心を病んでいく花子の思いが歌われているのだが、ここにあらわれている「わたし」の内面は、リアルなものなのか。読者はどこまでそれに共感することができるのか。   (栞文より)


吉川は森井のテクストへの批判として「身体性の欠落」を指摘する。そして、吉川の短歌観から評価できる歌を例示し、「短歌の〈私〉において最も大切なのは」、「コピー的な作品からは感じることのできない、身体的な存在感である。」という見解を述べる。テクストから作者の肉声が直接感受されること。吉川が求めているのはそのようなリアリティーである。

例えば森井の次のような歌に、吉川は「作り物ではない、ほのかなリアルさを感じる」と言う。

  置いてきたビニール傘の白銀しろがねにだれかの指がふれた気がする


誤解のないように言っておくが、私は吉川が栞文において森井の歌を批判的に論じたこと自体を問題にしようと思っているのではない。吉川が自己の短歌観に基づいて森井の短歌を批判したことは、誠実な批評態度であると言える。ましてや栞文においてそのような批評態度を貫くことは、吉川にも相当の覚悟があったはずだ。またそれは、森井のテクストが吉川を批判的な態度にさせるだけの挑発性を秘めていたという証左でもあるだろう。

だがしかし、吉川の次のような批評を読んだとき、森井の批評とそれに基づく実践が困難な立場に置かれていることを感受せざるを得なかった。

森井マスミは、この歌集で〈作者〉そして〈私〉への懐疑を、くりかえし表現している。「『死の棘』日記」や「ひかりごけ」などの小題にあらわれているとおり、ほとんどの作品が、過去のテクストを短歌に変成させたものである。その徹底性において、『ちろりに過ぐる』は、非常に異色な問題作である。
私はこの試みが必ずしも成功しているとは考えないが、森井マスミの渾身の問いかけに対して、既成の歌人たちが反論していく価値は、十分にあるのではないか、と感じる(むろん賛同してもいいのだが)。
反論の方法はいろいろあるだろう。                   (栞文より)


この後、吉川は自己の問題意識に即した反論の一つとして、先に触れたように森井の歌の「身体性の欠落」を指摘する。

吉川の理解では森井のテクストは、ポストモダンの影響を受けたシミュラークルなテクストであると言うことになる。そのような理解はけっして間違ったものではない。

しかし、初めに紹介したように森井は、「私」に関するポストモダンな状況に危機感を覚え、むしろ、そのような状況を脱構築する方法を模索し、「私」の甦生と新たなる創造を指向している。

「作中の『私』=作者といった短歌的な制約は、現代の文学的な状況の中にあっては逆に、表現が超越性や規範性を回復していくための、手がかりとなるものである」(「文学の残骸――オタク・通り魔・ライトノベル」)という認識が森井の実作の根幹にはある。

つまり、森井がシミュラークルなテクストを駆使するのは、「私」の甦生と新たなる創造を戦略的な間テクスト性の内部から立ち上げていくことを希求しているからである。しかしそのような試行が吉川の目にポストモダン的な方法に淫していると見えるのならば、それは森井のテクストが森井の意図に反しているということだろうか。いや、吉川が引用文の中で「既成の歌人たちが反論していく価値」という言葉を使っているように、新たなる批評の基軸を立てれば、森井の歌を森井の意図に即したテクストとして評価することが可能になるということだろうか。

私は後者の立場から森井の短歌を評価する基軸を立てたいと思うが、その場合どうしても引っかかるのが、「作中の『私』=作者といった短歌的な制約」という言葉である。

それを言うのならば、短歌表現では「作中の『私』=作者」というように見なされる、あるいは慣習化されており、それを逆手にとって有機的に利用することで、表現の可能性を拡張することを目指す、ということではないのだろうか。森井もそのような意味で使っているのではないかと類推しながら読んだが、意味の深度がはっきりとはしていない。

森井のテクストを批評するには、プレ・テクストとの重層的な関係性を分析し、文学的な効果について言及しなければならない。それに際しては、森井のテクストが内在する文学性についての確かな批評眼と厳密な批評が要求される。

また森井自身、自己のテクストの前に立ちはだかる規範的な短歌批評の強固な壁に対して、これからどのような批評の新基軸を打ち出していくのか、その点も興味が尽きない。森井の文学観と実作の間にある問題は、現代短歌を考える上で重要な課題を提起している。

ただし森井は『不可解な殺意短歌定型という可能性』を読む限り、穂村弘とその影響を受けたインターネット短歌に対する批判的な態度とは対照的に、吉川宏志の短歌観に対するシンパシーを持っている。それは森井のテクストが吉川の短歌観と無縁なところで作られているのではないということを示している。そのことを念頭に置いて、現在の森井のテクストと吉川の評価を見る限り、森井の置かれている状況にアンビバレントな要因が内在していることを危惧するのは私だけではないだろう。いや、それが森井自身にとってはアンビバレントな要因ではなく、理論と実践の内部で揚棄されていくものであることが重要であり、それゆえに困難な問題であることに意味があるのかもしれない。

いずれにしても、森井にとって作中の「私」の問題は、批評と実践の双方向における最重要課題である。

『不可解な殺意短歌定型という可能性』には現代短歌を考える上で、見過ごすことのできない興味深い内容が豊富である。本稿ではその一部についてしか触れることができなかったが、また、機会を改めて取り上げてみたい。

この評論集が歌人の必読の書であるのは言うまでもないが、批評と実践の問題を真摯に考える上で、刺激に充ちた一書であり、多方面からの意見が期待される。



09/10/26 up
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