詩人のプライド・谷川俊太郎の
インタビューを読んで考えたこと。

去る11月25日の朝日新聞の朝刊「オピニオン」の欄に、「詩はどこへ行ったのか」という谷川俊太郎へのインタビューが掲載されている。大新聞の三分の二面に詩についてのインタビューが載ると言うことは、現在もっとも著名な詩人である谷川俊太郎だからこそだろう。

しかし谷川俊太郎を著名な詩人として世間的に認知させている要素は、「教科書に詩が載っている」、「スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している」ということに依拠しているものであり、谷川自身がインタビューの中で、「あんまりうれしくない」と言っているものである。ただし、このインタビューもそのような要素が谷川にあるから実現したのである。

谷川の詩の「詩」としての価値と商品としての価値は、必ずしも一致するものではない。私がここで必ずしもと書いたのは、商品としての価値が「詩」としての価値を貶めるとも思わないからだ。理想を言えば商品としての価値と「詩」としての価値が一致することであるが、それはやはり理想の中だけで語られうるものだろう。

私たちが警戒しなければならないのは、商品しての価値と「詩」(芸術)としての価値が一致すると思わせられる最近の言説である。ただ、そのことを二項対立的に即座に葬り去ってしまったのでは、この先表現の世界に光明があるとも思えない。両者の差異を妥協的に処理するのではなく、現状に即して生産的に止揚しなければならないだろう。谷川が大新聞の朝刊で詩についての発言を許されるのは、詩人としての価値が商品としての価値によって損なわれていないからである。いや、むしろ商品としての価値が谷川の詩の本質をより耀かせている側面があるからだろう。

言うまでもなく谷川の詩の本質は商品としての価値にあるわけではない。商品としての価値によって世間的に有名になったことは、谷川の詩の本質からすれば表層的なものにすぎない。しかし、現在はそちらの方が本質であると錯覚するような環境にもある

谷川が「教科書に詩が載っている」、「スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している」詩人と見られるのを「あんまりうれしくない」と発言をしているのは、詩人としのプライドが言わせる言葉かもしれないが、その言葉の中には一筋縄ではいかない複雑な要素も内在している。

この発言の後のインタビューを引用する。次のような聞き手の質問に答えたものである。

――どうしてですか?職業詩人として、商品としての詩を書く、と以前あえて言明されていたと思いますが……。
「確かに、その部分でぼくは主に仕事している。じゃあ、それでいいのかとは思いますね。子どもから老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微少なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。権力や財力のようにマスを相手にするものじゃない。ウイリアム・ブレイク(18~19世紀の英国の詩人)は、
一粒の砂に世界を見
一輪の野の花に天国を見る
と書いています。」



谷川のこの発言の中に忸怩たるものを感じるのは私だけではないだろう。理想とする本来的な詩人のあり方と、自己の世過ぎのために詩人を職業として商品としての詩を書かなければならないという現実。そのギャップの間を生きる谷川俊太郎という詩人の詩に向き合う誠実さと、内に秘めた激しさがこの発言には内包されている。

次の発言にも注目させられる。


「人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、ことばを獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる」



短歌も詩と同じように「宇宙内存在としてのあり方に触れようとする」表現、「詩」であると私は考えたいが、谷川はそのようには考えないかもしれない。

谷川はこの発言の後に、「短歌、俳句は結社として、作品がお金にから」むが、現代詩は貨幣に換算される根拠がない極私的な創造物であることを説明する。また、お金に頼らなければならない現在の価値観のもとでは、「詩」よりも「詩的なもの」に若者は満足し、若者が利用するインターネットの問題点として、「主観的なことばが詩」という誤解に陥りやすいことを指摘している。

谷川の発言から注目される部分を抜粋する。


「ネットの問題は『主観的なことばが詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう」
「『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。(後略)
(前略)詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、あいまいです。
古池や蛙飛び込む水の音
という芭蕉の句にはメッセージは何もないし、意味すらないに等しいけれど、何かを伝えている。詩ではことばの音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です」



このような発言が大新聞の朝刊に載ったことの意味を私はけっして小さな事であるとは思っていない。しかし、この発言が誰に届くのだろうという危惧は持っている。

また谷川が分かりやすく解説した詩の本質が詩の商品化と今後どのような折り合いを見せるのか。それとも永遠に折り合うことなく平行線のまま相互の意味を特化し続けるのか。

いずれにしても、「詩」を創作することのアポリアは常に創作者自身に還元される。


09/11/30 up
back