続・斉藤斎藤の評論「生きるは人生と違う」を再読する。

(2007年10月:「短歌ヴァーサス」11号所収 風媒社/1470円)

斉藤斎藤の評論「生きるは人生と違う」を読み進めると、「3 ふつうの〈わたし〉のかけがえのなさ」のパートに次の歌が引用されている。

  牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

宇都宮敦

私は宇都宮敦という作者については何の知識もない。歌を読んだのもこの歌が初めてである。この歌の後には著者のインタビューが抜粋されている。宇都宮はそのインタビューで、「特別」であることを特化するのではなく、「ふつう」に存在しているという意味における「特別」さを表現することを主張している。この歌については斉藤斎藤の次の説明がわかりやすい。

「宇都宮の歌には、『私』も含まれている。しかし、その『私』が、何ら特殊でない、ふつうの女のコをふつうに好きなふつうの男の子として設定されることで、〈私〉のかけがえなさが際立つのである。」

しかし、果たしてそうだろうか。自分に向かって「ふつう」の男の子であることを表現することは作者の自由である。しかし、「他者」に向かって「ふつう」という言葉が意味しているのは文字通り「ふつう」ではない。それは、「他者」の存在を認めることではなく、「他者」を自分に同化することである。「〈私〉のかけがえなさが際立つ」のは、「他者」を自己化した内部においてのみであり、それは「他者」不在の自己愛と何ら変わるところがない。しかも「ふつう」という存在のあり方そのものは、自分をも含めてどこにもありはしない。

ただ、この歌の場合「ふつう」という言葉に批評性が内包されているので、その点から「〈私〉のかけがえなさが際立つ」と言えるのではないか。いや、批評の方向性と対象が抽象的である以上は、そうも言えないだろう。その意味で言えば、宇都宮自身、ある「他者」から「ふつう」という言葉によって批判されかねない。むしろ、「個」と「他者」を「ふつう」という言葉で括らない意思こそが表現に課せられている。〈私〉のかけがえのなさを大切にすることは、「他者」を自分と同じ次元に置かないところから始めることが要求されているだろう。

斉藤斎藤の説明によると、若者が〈私〉に表現の根拠を置くのは、「(中略)社会が流動化し、中長期的な『私』の安定が奪われたからである。」と説明される。要するに今の社会が悪いのである。もしその通りであるとするならば、ポストニューウェーブの歌は、ある世代的なルサンチマンから、「他者」をも自己化することによって、「〈私〉のかけがえのなさ」を際立せるという自己愛に向かっているということになる。

もちろん、今の社会は若者にとって生きづらい矛盾に充ちており、資本主義の名のもとに合理化された功利主義がこれほど病的に露出したことはかつてなかった。また、斉藤斎藤もその年代に当たると思うが、いわゆる、ロストゼネレーションと言われる世代の過酷な状況は、私の想像を遥かに超えたものがある。

そのような社会状況がもたらす自己愛の連鎖が、表現のエコールに繋がるのならば、まさに、「〈私〉のかけがえなさ」は、表現者の内部にのみ存在し得る同質的な横並びのものでしかない。いくらそこで、個人の平等と尊厳を称えても〈私〉が「他者」に到ることはないだろう。〈私〉の発した言葉は、〈私〉に返ってくるのみである。

もしそうならば、ポストニューウェーブの短歌は、現代短歌の価値観の内部での欲望にすり替わりかねない。歌壇の掌の上で、自意識の拡張にともない、自由であることの幻想のみが膨張してゆく欲望……。

いや、そうではないはずだ。ポストニューウェーブの短歌は、脱コード化の切り札の一つとして、現歌壇の価値観を脱臼させる詩的表現を目指さなければならない。


07/11/05 up
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