黒瀬珂瀾歌集『空庭』を語り合う会に
出席して。


黒瀬珂瀾歌集『空庭』を語り合う会が2月6日に日本出版クラブ会館において行われた。出席者は130余名、年齢層も様々で黒瀬珂瀾という歌人に対する関心の高さを物語る会であった。

パネルディスカッションは、詩人で社会学者の水無田気流、荻原裕幸、永井祐のパネリスト3名に、著者の黒瀬珂瀾が自著のアドバイザー?として加わり、司会の田中槐によってテンポ良く進められた。

まず口火を切ったのが普段短歌を読むことはなく、初めて短歌の批評会に参加したという水無田気流であった。水無田は社会学的な解説に基づき黒瀬短歌への状況論的な分析や世代的な表現の同質性を視野に入れ、黒瀬のテクストが内在する意味を理論的に解説した。水無田の発表が新鮮だったのは、社会学者のとしての目と詩人としての目が融合した視点からテクストの分析を行っていたからである。それは黒瀬のテクストを短歌テクストとして見る以前に、アクチュアルな「詩」表現の問題として批評の俎上にのせていることからもたらされているものだ。そこに同世代としての共感もまた差異も見出され、黒瀬のテクストを短歌という固有性の内部から解き放ち、「詩」表現としての立ち位置から見たときのスリリングな風景を私たちに提示してくれた。普段短歌を読み慣れている歌人とは違う視点からの「読み」が示されることの意味の重さを、私は水無田の発表から改めて感受した。

水無田のレジュメ「黒瀬珂瀾≒第一次世界内戦時代のポエジーを読む」から、タイトルとそれぞれ引用されている歌を1首のみ抜粋する。


「♯0ゼロ年代のコトバ」
テロにはじまり、ゼロに終わる:グラウンド・ゼロという虚妄

「♯1主体の無人地帯ノーマンズランド
中心から取り戻すため中心に向けて書くのだ霊のみぎは

「♯2時間失認タイムアグノシア失郷症アトピー
ディストピアとは何処ならむしろたへの雪ふる果ての我が眼の底か

「♯3『私』へのノスタルジア」
腐りゆく赤茄子のわれら一瞥を受けたるのちに置き去りにされ


また、水無田が『空庭』を象徴する1首として最後に引用した歌はこの歌集の掉尾の次の歌である。


一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメー
ジで


この歌はパネリストの永井祐を初め会場からの発言でも話題になった歌で、注目された1首である。

その永井祐はレジュメの初めに一番好きな歌として次の歌を挙げている。


日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫


永井はこの歌が一番好きな理由を「外部の不可能性」を提示しているからであるという。また、この歌を含む第5章の「太陽の塔、あるいはドルアーガ」には「外部の不可能性の認識に到った経緯が示されているというのである。永井は『空庭』のモチーフの本質が何かを冷静に分析し、黒瀬の多方向的な表現の立ち位置から「外部の不可能性」を最も重要な問題として析出してみせる。そのような分析には私も共感するが、この連作にはテクストとモチーフの本質がうまく融合しているとは言いがたい歌も含まれているだろう。

さらに永井は、黒瀬の歌の特徴の一つとして視野を狭めたトリビアルな世界、日常性に向く傾向を指摘して、その世界に黒瀬の短歌の可能性はないと断じている。これに関しては会場からの発言にもあったが、フラットな表現を目指しているようで、実は屹立したいという欲求が黒瀬の資質にあることとが関わっているようである。

荻原裕幸は次の3つの疑問点から黒瀬のテクストを分析する。
1)固有名詞が多過ぎやしないだろうか?
2)定型は十全に活用されているか?
3)主要作/代表作はどれなのだろう?

1はある世代間で共有される「オタク」用語や黒瀬の美学に基づく固有名詞が短歌という詩型の内部で有効に機能しているのかどうかという疑問であり、荻原はそれが必ずしも有効に機能はしておらず、読者を初めから限定していると見ている。

また、2は、1首単位のテクストのクオリティーが連作的な構成の内部で犠牲にされているのではないかという疑問である。これは黒瀬の歌の文体が意外にオーソドックスで短歌定型を巧みに活かす技術を持ちながら、「黒瀬珂瀾らしさ」を有するテクストの場合には、それが十全に活かし切れていないのではないかという疑問点として指摘されている。

3は黒瀬珂瀾の「私」はどこにいるのかという問題から提示されているもので、単に、主要作/代表作が何かという短絡的なものではない。それは黒瀬珂瀾にとどまらず、現代短歌の問題としても提示されているものである。

以上大ざっぱに3人のパネリストの発表を記した。

状況論的な考察に基づく短歌外部の視点からの分析、テクストのモチーフと表現者の資質の分析、短歌の特性から見たテクストの考察、三者三様の『空庭』へのアプローチがうまく融合した興味深いパネルディスカッションであった。

しかし、少し残念だったのは荻原が提示した3つ目の疑問から引き出される表現者の「私」の問題を、水無田の状況分析と交錯させると何が見えてくるのか、その点を掘り下げた議論がなされなかったことである。

また同じく、永井が指摘した「外部の不可能性」という問題と、水無田の状況分析がどのようにリンクするのか、これも重要な問題として議論されるべきものであった。例えばポストコロニアルの歌一つをとってみても簡単に片づくものではなく、短歌という詩型によってポスコロを詠うことに、いかなるアポリアが表出しているのか、目を逸らすことはできない。それらはすべて現代短歌のアクチュアルな重要課題として、短歌表現を考える上でこれからさらに大切な問題になっていくだろう。

さて、会場からの発言も刺激的なものが多かったがやはり、世代的な差異による意見の違いが顕著に表れていた。特に高齢の発言者からは荻原の疑問点に繋がる発言が目に付き、黒瀬より少し上の世代からは、永井や水無田の発表に関わる意見や問題点との交換が行われた。

私自身は『空庭』を次の点によって第1歌集の『黒耀宮』よりも高く評価しない。『黒耀宮』の世界はフェイクではあるが、セクシャリティーを含め短歌のコードを拡張するパフォーマティブな世界を構築し得ている。しかし、第2歌集『空庭』には短歌のコードを拡張する方法的な工夫が稀薄である。むしろ短歌のコードへの親和性が顕著であり、それによって言葉とモチーフの現在性が詩型の内部で引き裂かれている。これは荻原の第2の疑問にリンクする問題である。そしてその点だけを特化するならば『黒耀宮』よりも後退していると言わざるを得ない。

また集中には岡井隆、加藤治郎、紀野恵、葛原妙子、斎藤茂吉など多くの歌人の文体模倣が見出されるが、それらの歌からは黒瀬が目指すべき文体の方向性が見えてこない。

先鋭的な詩性や批評性を内在する短歌は短歌のコードの拡張や脱臼と表裏一体である。『空庭』が内在するモチーフの現在性と多面性が、短歌という詩型に親和性を持った時点で失われていくものを私は惜しむ。

黒瀬珂瀾は今後論作ともに歌壇の一角を担っていかなければならない重要な歌人である。黒瀬珂瀾の歌がこれからどの方向性に向かうのか注視していきたい。



10/02/08 up
10/02/09 am0230改訂
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