短歌の批評について考えてみませんか
――川本千栄への問いかけ。


先週の青磁社の「週刊時評」(3月15日)で川本千栄が、山田消児の評論集『短歌が人を騙すとき』(2010年1月彩流社刊)と、私の初期山中智恵子論『私は言葉だつた』(2009年10月北冬舎刊)を比較して取り上げている。

川本の文章のモチーフは短歌の評論の書き方の姿勢を問題にしたものである。一言で言えば、山田の評論が平易な言葉で書かれ多くの読者に開かれているのに対して、拙著がいたずらに難解な言葉を使い読者を限定し、正否の判断を分からなくさせているというのが川本の主張である。

「週刊時評」「評論に求めること」から最後の部分を引用する。


山田の論に対しては「ここはいいが、ここは同意できない」と言えるが、江田の論に対しては同意するもしないも何も言えない。たまたま手元にあるため江田の文を例に引いたが、実はこうした分かり難い文は歌壇に蔓延しているのではないか。そこには、分かり難い文を高尚な文と勘違いしてありがたがる風潮も、読者側の問題としてあるのかも知れない。
難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない。難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示してこそ評論を書く意味がある。分かりやすい文章は、書くのが簡単なように見えるが、実は全く逆で、書く側に多くのことを要請するのだ。だからこそ、読者の側もそれを読んで、今まで理解出来なかったことが理解出来るという、読む喜びを持つのではないだろうか。



私は山中智恵子の初期テクストの本質を分析するには、テクスト論的な方法と構築主義的なアプローチが不可欠であると思っている。また、そのような方法でテクストを分析する限り、難解な表現を含まざるを得ないことを許容している。それを読者がどう受け取ろうが自由である。しかし、山田の評論と私の評論では、分析するテクストもアプローチの仕方もまったく異質である。その点を考慮することなく、同じ次元で比較することも、川本の自由であり私が口を出す問題ではない。ただ、私の文章を例に挙げて、歌壇の一般的な風潮にまで敷衍するのはいかがなものであろうか。

私には、分かり難い文が「歌壇に蔓延している」とも思えないし、分かり難い文を「高尚な文と勘違いしてありがたがる風潮」があるとも思えない。短歌の評論をすべて読んでいるわけではないので、確信を持って言うわけではないが、私が読んだ範囲では理解できないような難解な短歌の評論に最近出逢ったことはない。大井学の労作『浜田到 歌と詩の生涯』(2008年10月角川書店刊)の一部の表現に難解であると感じたが、それは浜田のテクストを分析する上で、大井にとって必然的なものであると理解している。

川本の言うように「難解な事柄を難解なまま提示する」のではなく、「難解な事柄であっても、論旨を明快にし、文章を吟味・整理し、読者の立場に立って分かりやすく提示」することは、基本的な姿勢であると私も思っている。ただし、テクストの分析は詩歌を分かりやすく翻訳するのとはわけが違う。難解な事柄を読者の立場に立って分かりやすく提示することで、その事柄の本質が別のものに変容してしまったのでは元も子もない。特に抽象的な要素を濃厚に内在しているテクストの場合は、テクストの解釈自体がアポリアを孕んでいる。しかし、あえてそのようなテクストを分析するときに、テクストに忠実に従おうとすると、どうしても難解な表現をとらざるを得ない場合がある。それはそのテクストがもたらす必然性であり、それをも否定するならばテクスト分析など成立し得ない。そこにテクスト論的な評論を書く意味などは見いだせないだろう。

テクスト分析には初めから決まった形があるわけではない。テクストが自ずから評者を通してある形に至らしめるのである。もちろんそこには評者の利害のコンテクストが作用し、評者によってテクストの分析に差異が生まれる。その差異、解釈の違いを個々の読者が自己の判断よって受け止める。ある分析に百人の読者が賛意を表すれば、そこに百人の読者の読みの共同体が生まれる。また、一人の読者の賛意しか得られなかった場合には、評者と読者の間に読みの交感が成立する。言うまでもないが、「百人の読者の読みの共同体」と「評者と一人の読者の読みの交感」だけを見て、前者の方がより正しいテクスト分析であるという保証はどこにもない。

しかし、テクスト分析は何からも束縛されていないわけではない。対象テクストに対する読みのコードは一定の基準に基づいて作用する。明らかな事実誤認や歪曲は受け容れられることはなく、テクストそのものが読みのコードを決定してゆく。ただし、脱コード化された難解なテクストの場合、テクスト自体にコードの拡張や脱臼が胚胎されることで、読みのコードにもその作用が及ぶ。

テクスト分析はあくまでもテクストの性格に基づいて行われるものであり、分析された評論が難しいか易しいかという議論とは次元を異にしている。テクストに忠実な分析でありながら、分かりやすい表現で説明できるのならばそれにこしたことはない。

ここで浜田到の代表的なテクストを例にして、2通りの解釈を引用したいと思う。


ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

列車に乗って鉄橋を渡ってゆく場面であろう。たぶん橋の下には川が流れている。地上を走る安定感から抜け出して、目のくらむような高さの架橋を渡りはじめる。その不安感と開放感が伝わってくる。空間における移動が詠まれていると同時に、この歌には夕方から夜へと向かう時間軸上の推移も加味され、歌世界に奥行きをもたらしている。
列車が橋にさしかかった一瞬に不思議な浮遊感を覚えるのは誰しも経験するところだが、その感覚を「ふとわれの掌さへとり落す如き」と表したのはじつに個性的。“上着を脱ぎ捨ててしまうようだ”とか“声を置き去りにしてしまうようだ”というのならわかるが、「掌」は人の身体の中で最もよく動き、よく使う部位である。それをいきなり取り落としてしまうのは尋常ではない。両掌をポトリポトリと落としたのち、作者がまるで異次元空間に入ってゆくようで、なにやら恐ろしい気持ちになる。上句の字余りも、歌に屈折を添えている。
 (『現代短歌の鑑賞事典』2006年8月東京堂出版刊。「浜田到」(栗木京子執筆)より)

                       *

ふとわれのさへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

最終的には到の歌集名としても採用されたこの「架橋」という言葉は、到の思考の中で重要な位置を占める概念である。
橋とは、向かい合いつつも断絶している対岸同士を結ぶものだ。隔たり、溝を抱えたその空間は、橋によってのみ結ばれ通行可能となる。

崖の美しさは、そこから先もはや眼に見えない架橋を予感せずに居られぬ、空間のもつ暈いの美しさである。丁度経験の果てまで行き尽くした言葉のように。                                (「神の果実」)

「神の果実」において到自身が語るように、架橋とは即ち崖が潜在的に秘めている飛翔の美しさの別名である。地層の様子さえあらわな崖は、地の断絶として唐突に空に向かって開かれる。「何もない」という状態は「何かある」の否定形であり、即ちそれは「何かある」を前提とすることではじめて成立する。切れた地は、その背後にある「連続」した地を前提とする。「眼に見えない架橋を予感せずに居られぬ」とは、即ち、空間意識に対する「保存の法則」が、必然的に求める前提であり、それは現実に対しての希望と言ってもいい。この、切れ且つ繋がっている空間としての架橋をわたりはじめるにあたって、「われのさへとり落す如き夕刻」以外、最適の時間があるだろうか。ものを摑み、ひとの手を握り、祈りのために合わせる掌は、宵闇の迫る夕べの時間においてふいにとりおとされうる。また、高さとは深さのことである。高い架橋とは、即ち深い断絶の上に渡された唯一の道であり、向かう先の対岸には、此処とは異なる世界が予知され、また希望される。掌さえも注意していなければこの深淵の中に喪いかねない。そんな時間よりほかに、この架橋を渡ることは出来ないだろう。 
      (大井学著『浜田到 歌と詩の生涯』《第10章》メタフィジカル短歌試論より)



浜田のテクストに対する栗木京子と大井学の解釈はまったく異なっている。それは栗木が浜田のテクストを具体的な情景に基づいて解釈しているのに対して、大井は浜田の心理的なメタファーとして読み、「神の果実」の言葉を援用しながら、歌の背後の情景を哲学的に説明しているからである。

この2つの解釈は、解釈に到る条件が初めから異なっており単純な比較は許されない。栗木の解釈の分かりやすさは、浜田がメタフィジカル短歌を試行していたという性格も、このテクストを読むために「神の果実」の言葉を参照するという行為も行っていない点にある。私はそのような栗木の態度自体を批判しようとは思わない。浜田に対する予備知識がなく、何の先入観も持たないでテクストのみを忠実に解釈すると、栗木のような読みは充分に成立する。また、初めて浜田のテクストを読む読者には大井の解釈は意味不明だろう。一方、栗木の解釈を読めば自分にも理解できる歌として安心感を得るだろう。

しかし、この歌に関してどちらの解釈を優先するか言えば、どれほど難解に見えようとも私は大井の解釈を優先せざるを得ない。それは浜田のテクストに内在するコードの条件が、大井の解釈の方に親和性を持っていると思われるからである。このコードは作者から遊離して、テクスト自身の方向性を示す。批評家はそのコードから作者も気がつかないモチーフを発見することを目指すのである。

大井のこの歌に対する解釈は栗木の解釈と比較すると難解である。しかし、難解な事柄を難解なまま提示する大井の解釈に書く意味がないとは思わない。ここでの大井の解釈は難解であることの必然性を内包している。それは浜田のテクストが内在するコードに忠実に読みを展開したときの難解さである。(そしてまたそれは、大井の解釈が正しいかどうかということとは次元を異にしている。)

今さら言うまでもないだろう。評論を書く意味とは限りなくテクストに近づくことであり、そのための難解さを否定したのでは批評は成立し得ない。誤解を恐れずに言う。批評は読者のために、その立場に立って書かれるものではなく、あくまでもテクストのために書かれるものである。批評とはテクストと評者との対話である。読者は偶然にすぎない。

せっかく川本千栄から短歌の評論に関する問題提起がなされたのだ。この機会に短歌の評論について考えてみるのも良いのではないか思う。私は以前本連載で川本の批評家としての態度に触れたことがある。川本は誠実な批評家で自分を誤魔化すことなく、誰に対しても正直な批評が書ける人である。いわゆる、提灯持ち批評や自分の為にする批評を書かない歌人である。

私がこのような文章を書いたのも川本を信頼し、出来ればネット上で短歌批評に関する問題について率直に意見を交換できれば思ったからだ。

この文章を受けた川本千栄の率直な返答を期待したい。



10/03/22 up
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