高柳蕗子論――
『潮汐性母斑通信』を中心に(前半)
>「夢幻航海」は、高柳重信に師事された岩片仁次さんが編集発行人を務める個人誌で、内容の充実した硬派の俳誌である。私はその「夢幻航海」の第44号(2001年9月刊)に「高柳蕗子論」を掲載させてもらった。掲載から既に10年の歳月が流れようとしている。
>その評論をここに転載しようと思い立ったのには二つの理由がある。一つはこの評論が、今まで歌人の目にほとんど触れることがなかったであろうということ。もう一つは、長く休筆していた高柳蕗子の歌人としての活動が再開したことである。
>今読み返してみると修正したい部分が多々あるが、訂正は最小限にとどめた。当時私が感じたことをなるべくそのまま残しておきたかったからである。今後私が「高柳蕗子論」を書く場合には、良くも悪くもこの評論がベースになる。
>なお、一度に転載するには文章がやや長いので、前半と後半の二度に分けたいと思う。
>最後になりましたが、「高柳蕗子論」の転載をご許可下さいました岩片仁次さんに感謝致します。
* * *
1
>発汗するなま新しい言霊にもだえるロボット霊媒部隊
>死んじゃってごめんと死んだ僕も泣く>えーいえーんと嘶く水棲馬
>微笑んでもおじぎをしても乳首から煙がもれるほどにおばあちゃん
>おじいちゃんのとっておきの精液にやさしい顔のサンタがいっぱい
>手錠した両てのひらにかわるがわる聴診器あて「どちらも無罪」
>うずいている夕焼けている>関係者各位わたしの乳首は交番である
『潮汐性母斑通信』
>このような短歌を創作する高柳蕗子は、以前から私にとって鬼門である。また、この文章を書き終わった時点でも、おそらく高柳の短歌が「読めた」という実感を味わうことはないだろう。私は高柳の短歌を論ずることで、短歌の解釈に関する既成の意味の概念から免れることを指向する。それは、私が既存の価値的方向性に向かい、高柳のテクストを意味付け、評価することに、文字通りどのような意味があるのか、疑問を抱いているからである。
>多くの歌人が自己の短歌の意味を等閑に付し、無批判に歌を作り続ける現状にあって、高柳短歌の異質性は、それ自体が現歌壇に対する痛烈な批判を放っている。私が高柳の短歌に魅力を感じるのは、第一にその点である。私は歌壇的な評価というものには疎い方なので、高柳が歌壇内部でどのように位置づけられ、また、評価されているのか、まったくと言っていいほど何も知らない。しかし、高柳の短歌が、この詩型に脈々と続いている従来の「短歌的抒情」を差異化するテクストとして、歌壇内部に孤高の位置を占めているだろうことだけは容易に理解できる。もちろん、高柳自身は歌壇の評価など端から相手にしてはいないだろう。その潔さは高柳のどの歌集からも感じられる。しかし、それ故に高柳歌集は厄介なテクストとして、私たちの前に異彩を放つのである。
>歌壇の評価を意識する歌集は、どのように難解に見えても「読解」が可能である。そのような歌集には、読者を想定した「読解」のルートが初めから開かれている。もちろん、そのルートに関してどこまで意識的かは、創作者によって深浅の差がある。また、創作過程で、無意識の内に「読解」のルートが形成されていく場合の方が自然である。
>私は創作者の姿勢の問題をここで取り上げようとしているわけではない。歌壇的な評価を意識したからと言って、そのこと自体が悪いわけではないだろう。テクストの評価は基本的にそのテクストだけに帰するということを確認しておきたいだけである。
>ただ、一概に「読解」のルートと言っても、読者の「読み」のレベルに応じて、様々なルートが開かれてゆく。読者の資質に基づく「読み」の行為から、多様なサブテクストは際限もなく生み出されてゆくのである。
>歌壇におもねらない高柳の歌集は、従来の歌壇的な「読み」の常識(「写実」の観点からの解釈、修辞的な巧拙、「私」性の拡大という視点からの考察)が通用しない。現在作り続けられている多くの短歌が、近代的な短歌の「読み」の枠の中で評価されるものならば、高柳のテクストは明らかにそのようなものを拒絶する要素を内在している。その意味では、1980年代半ば以降に登場したニューウェーブ以後の歌人たちの一人として、一応は位置付けられるだろう。しかし、その中にあっても高柳は異質である。
>以前私はある歌集の批評会で、歌集の批評の方法をめぐって高柳と意見を異にしたことがあった。そのときの対立点は、高柳が歌集に応じた批評の方法の必要性を主張したことに対し、私はあくまでも自己の価値観に基づいたところからまず批評を始めなければ、批評そのものが成立しないというものだった。私は今でも自分の考えを修正するつもりはないが、歌集に応じた批評の方法が求められることは理解できる。また、高柳のテクスト程、歌集に応じた批評の方法の必要性を感じさせるものもないだろう。高柳短歌に対する無理解は、歌壇の動向を意識しない高柳にとっても目に余るものがあるのではないだろうか。
>私が高柳短歌に関する纏まった批評文を読んだのは、「夢幻航海」の前号に載っていた藤原龍一郎の文章だけである。そのこと自体は、私の不勉強さかげんを露呈しているだけかもしれない。実際には、高柳の所属する短歌同人誌「かばん」を初めとして、多くの批評文が今までに書かれていることだろう。あるいは、高柳の短歌を何の抵抗もなく自然に受け入れている、多くの読者もいるかもしれない。そんな思いの中で、おそらく私に出来ることは、私の感じた高柳短歌の異質性をどうにかして言葉に置き換えてみることである。私はここに高柳の歌集に応じた批評の方法を作ろうとは思わない。私なりの見方による、高柳短歌に対する「読み」の可能性の一端を、僅かでも示すことができれば良いのではないかと思っている。前置きが長すぎたようだ。それでは高柳の短歌を読んでみたい。
2
>はるめらるはてなの兄は育雛器発明せり(潮汐性母斑通信)
>あだぶらる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら
>幽された兄にむらがり楽器らがしくしく脱皮する草世界
>花野>ああ倒れ込むとき兄の胸が凍りながら鳴るアコーディオン
>兄よ兄よ>母が今夜も他の人にわからぬ言葉でわたしを叱る
>傍受せり>裏の世に兄は匿われ微吟する「二一天作ノ五」
>忘られた兄よ>母を泣く黒服に混じって一人まっぱだかの月
『潮汐性母斑通信』
>最新歌集『潮汐性母斑通信』の最後には、「生まれなかった兄」というタイトルを持つ長い「後書き」が書かれている。私にはこの文章が非常に興味深かった。もともと高柳には、「後書き」に対する並々ならぬ執着がある。それは、第一歌集『ユモレスク』の父重信への回想的な「あとがき」に始まり、第二歌集『回文兄弟』の(「退治」から「和解」へ)、そして、第三歌集『あたしごっこ』の「あとがきごっこ」へと、意識的、かつ創作的にそのつど短歌創作の秘密を明かしながら書き継がれていく。しかし、「生まれなかった兄」は、それらの「後書き」に対しても決定的な異質性を放つ。それは、この文章の中で語られている内容が、高柳の実存的な存在感に基づいた短歌世界の創造を、創作者側からできる限り誠実に突き詰めて語っているからである。
>高柳によって仮構される「兄」は、個人的な特殊性を孕みながら、偶然性、未確定性を体現する「世界」の象徴であり、内的な対話者、「他者」としての側面を強く持つ。そして、「私」の内側に存在する(内部空間に幽閉される)「私」と未分化の「兄」は、「私」が「確かな存在ではないという底のない不安」を補強してくれるものである。「私」は配られる直前までは、何の札にもなりうるのっぺらぼうにすぎないが、配られた途端にかけがえのない偶然のカードの一枚になる。
>高柳は自分をテーブルの表側、つまり、結果側を代表する存在として、テーブルの裏側、世界の不確定側を擬人化した「兄」と並存させ、「私」と「兄」の内的な対話を、自己の存在の意味とパラレルに提示していく。そして、「兄」側の世界は「私」の味方であり、実現したただ一つの事実には、あり得たが事実にならなかったすべてが結集されていることを語る。実現しなかった可能性たちは、「私」という事実を保証するものである。
>また、「私」は、「兄」と世界を二分する「私」と、認識主体である「私」によって形成される。「認識主体」である「私」は、不確定世界から偶然確定して生じた「自分」の内側にいる「飼い主」のような視点を保有する「自分」を、生きた唯一の財産として育成しているものである。この「私」=「飼い主」は、「不確定」から「確定」へと進み続ける「宇宙」に、「自分」という宇宙服によって閉じこめられている。「自分」が死ねば「飼い主」も消滅する。そして、本来いかなる価値観も存在しない世界に、何らかの価値観を見出した上で、自分の価値を高めようとするのが、「飼い主」である『私』エネルギーなのだ。
>「飼い主」が一致できるもの―それは、世界との関係性だけである。不確定から確定に倒れ込むという世界のしきたりに対抗する行動を、人間はしきりにとっていないだろうか。誰とでも交換できる「認識主体」、「飼い主」である「私」の孤独。どうしても触れられない「他者」の喜びこそが、真にそこに同類のものがいることの手応えでもある。この寂しさにしか基づけない行為、そこには、存在の悲しみに基づく高柳的な抒情がかいま見える。
>もし、自分の果たせなかったことを、誰かがやったら一生くやしいだろうというのが、「飼い主」の見方であり、私に幽閉中の兄は、自分がやれば自分が嬉しく、誰かがやれば誰かが嬉しい。その違いは小さなことだと言い、どこでもいい、その孤独にあきたらやめていい。お前が立ち止まった任意の場所がゴールだ。すべての場所で僕は待っていてあげるよ。と、すごく憎たらしい愛で包もうとする。それに対して「飼い主」は、結果から間接的に後手にまわってしかそれを感知できない偶然性に対して、目的を決めて歩き出す。これは偶然のなりゆきで結果が確定する世界のルールに対して倒錯した行動である。「飼い主」の孤独は、部分が全体に対抗する独創のエネルギーなのだ。
>この長い「後書き」をここまで読んだ段階で、既にこの文章から詩的な言語表現とのアナロジーを読み取ることは可能だろう。しかし、この「後書き」の最後の部分(短歌は「兄」の宇宙服)を読むとき、「後書き」の意味は、さらに高柳の短歌との関係性において決定的に深まってゆく。まず冒頭で高柳は、次のように短歌について語る。
>私は短歌を、例の閉じこめられている兄に着せる宇宙服にできると思った。短歌にはボディがある。浮世離れした短歌のボディが、「生まれなかった兄」を体現させるものとして、うってつけであるかに思 えた。空のボディが用意されている短歌は、もともと反世界的な知恵かもしれぬ。
>そして、「兄」は「飼い主」とも異質な孤独者として、生まれなかったのに消滅しそびれ、不確定世界とも隔てられた世にもめずらしい存在として、仮想しただけで世界観が変わる自慢の「兄」なのである。この後登場する短歌シアターの演出家は(高柳の分身の一人)、「兄」に宇宙服(短歌)を着せ、自分という宇宙服を着ている「飼い主」である認識主体を「妹」と名乗らせて、「兄」と「妹」のシンメトリーを想定し、それがおとぎ話のような情緒性を帯びることに悦にいる。「私」は「兄」の「妹」ではないが、兄と妹ごっこを演じてみせる。そしてできた歌が次の一首である。
>√兄>√妹>宇宙服で触れぬかげんにするせっせっせ
>この歌はまさに高柳の短歌として象徴的な意味合いを持つものである。ただ、この後に書かれる「後書き」全体の締めくくりの言葉は、さらに示唆に富んでいる。
>めくられていることに気づかぬぐらいにそおっとトランプをめくることができたら、ダイヤのジャックがあわてて服をはおろうとするところが見られるだろうか。その裸のジャックに短歌を着せてトランプから連れ出すことは可能だろうか。この歌集の短歌は、いろんなめくり方をしたにもかかわらず、結局めくってしまったトランプである気がする。その一点がひっかかり、こんなに長い「後書き」を書いた。
>『潮汐性母斑通信』の「後書き」をなるべく文章の流れに添って辿ってみた。この「後書き」が高柳短歌の理解にとって、いかに重要であるかは言うまでもない。ここには高柳短歌の本質的な問題が数多く露呈している。この「後書き」によって初めて理解できる、高柳短歌の構造的な意味合いも少なくない。私はこの「後書き」を踏まえながら、高柳短歌ワールドの中に迷い込んでみることにしたい。
11/03/09 up
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