高柳蕗子論――
『潮汐性母斑通信』を中心に(後半)


(承前)

       

高柳の短歌が目指す方向性の一つには、「後書き」に書かれていた言葉を使うと、「不確定から確定に倒れ込むという世界のしきたりに対抗する」という意味合いがある。しかし、テクストが意味的な次元で論じられる限り、たとえ多様なレトリックを駆使することで、意味的なカオスに包まれていようとも、最終的には不確定からある確定へと向けて倒れ込む、世界のしきたりにどこかで添わなければ、テクストは成立し得ない。つまり、いかなるテクストを創っても意味に躓き、必然的に敗北感を味わわされることになる。それは定型詩の限界というよりも、言語表現のアポリアに属する問題であるだろう。

ただ、その際にもテクストの「異化」に特化して言えば、二つの方向性が考えられる。

一つは、従来の短歌的な言語環境(現代短歌の同時代性を反映する制度的な意味の世界、短歌的言語環境の最大公約数)の内部でテクストを「異化」する方向性である。そして、二つ目は、よりアナーキーに、言語環境(あるいは価値観)そのものを「異化」する方向性である。

高柳の短歌テクストを考えた場合、歌集によってこの二つの方向性を明確に区分することは難しい。ただし、一応の目安として、『潮汐性母斑通信』以前と以後という区分が成り立つように思われる。

偶然の結果として招来した「私」は、生まれなかったのに消滅しそびれ、不確定世界とも隔てられた世にも珍しい存在である「兄」から発信される通信を傍受する。

キッチュやパロディー、言葉遊びに何げなさそうに装われた「存在の不安」「居心地の悪さ」、そこから生まれる高柳的悲哀の短歌テクストへの内在……。高柳の歌に登場するお馴染みの家族たち、祖父、祖母、父、母、伯父、そして、「兄」は、不確定と確定を媒介する媒体のような機能を持つ。(もちろん、家族たちの機能は、それだけの意味にとどまるものではない。)

架空の家族を媒体として、不確定と確定を通行してゆく言葉を、歪みを伴いながら動かす短歌詩型、高柳の短歌テクストが胚胎している特殊性の一つはそのような点に認められる。

高柳のテクストを難解なものにしているのは、構造的な言葉の仕組みが、一般的な表現に対する価値観とは別種の異相空間を形作っているからである。短歌という詩型に、「存在の不安」をすくい取ることによって差し出された高柳の悲哀は、言葉に装われた異形として私たちを戸惑わせる。そして、高柳自身は「言葉」と「もの」=「世界」と、自分との鬼ごっこから、永久に抜け出すことができない。

高柳のテクストは、既成の言語環境に継続的に行為することにより、新たな言語環境を相即的に更新するものである。この行為による言語環境の異化作用は、制度的な意味の構築には向かわず、予測不可能な言葉の偶然性に向かう。言うならば、意味の亀裂を内在しながら、言語の解放に向かって開かれてゆくのである。

よって、一般的な短歌の価値基準で量られ、捉えられるものではない。高柳のテクストは、従来の価値判断が保留される不可測の要素を含んでいる。そのため、短歌の既成の価値基準と高柳のテクストとは、埋めようのない齟齬を残し続けるのである。

短歌の近代的な価値観を基準にして、高柳のテクストを批評することに、まったく意味がないとは思わない。しかし、高柳の言語世界の特殊性を理解する上で、そのような基準に基づく批評が、あまり有効ではないことを確認しておく必要がある。


       


第二歌集『回文兄弟』の連作「回文兄弟」と、第四歌集『潮汐性母斑通信』の連作「十人」は、どちらも、一郎から十郎までの「物語」である。この二つの連作を比較したとき、高柳の創作意識の多様な方向性の一端がかいま見えてくる。ここでは、その方向性の違いをテクストの比較から論じてみたい。

連作「回文兄弟」の冒頭には、次のような「詞書」が付されている。


 「十人十色というだろう。つまり人間には十色しかないのさ。」私にはこんなことを言って淋しそうに笑う伯父がいる。



このような詞書は、連作の言語空間の意味を拘束し限定する。しかし、同時に、一種の免罪符としても機能し、連作においてどのような詩的実験を行おうとも、最終的に「詞書」の意味の方へと回収される。

例えばこの「詞書」の場合は、架空の伯父の言葉が、テクストを一つの制約内部に取り込む機能を果たし、一郎から十郎までの人物像が、ある人格を代表する寓話的な対象として造形されてゆく。


絶望より脱帽だよと一郎は禿に虹たて「浦和で笑う」

毛虫眉そろわぬほどに逆上しやきもち焼きの「二郎這う路地」

三郎に日々新しい名をねだる喘息病みの「震えるエルフ」

冷酷さ誇る四郎が魚抱いて眠れば小声で「理由乞う百合」

五郎夫妻殺意とともに分かちあう架空の友は「イカした歯科医」

貧乏ゆすりに銀歯ゆるめつつ六郎がときどき化ける「奇抜な椿」

女らの野菜のような影嫌う港の七郎「妹おもい」

八郎は盗んだ亀の下敷きとなって御陀仏「けだるさ去るだけ」

断固たる面持ちで五円玉めがけ放尿している「九郎耄碌」

晩年の家出たくらむ十郎をはなれぬ背景「鷺なく渚」

                                              「回文兄弟」


「回文兄弟」は、「」内の言葉が回文になっていることによるテクストの「異化」が第一のポイントである。しかし、それは、裏を返せば、表現上の厳しい拘束でもあり得る。ただその拘束は、言葉の意味から見ると、表現上の偶然性を用意するものであり、言うなれば、どのようなテクストなるかわからないという意外性を胚胎する。

ただし、この連作には、「詞書」による拘束が加わるので、二重の拘束性によって、作り手側から意識化された、対象としての人格化が行われている。よって、この方法で行う表現の「異化」は、テクスト内における「主体」としての人物像を完全に解体する方向性には向かわず、従来の短歌の言語環境内部での「異化」のレベルにとどまってしまう。

だからと言ってこの連作がテクストとして優れていないと言っているのではない。用意周到なこの連作を楽しめなくて、この歌集を語ることはできないだろう。存在の根っ子のトポスから醸し出される「高柳的悲哀」は、この連作においても充分に堪能できる。要は高柳の短歌表現の方法論を、いかに楽しむのかの問題である。


始業八時いっせいに踏む空ミシン祖父一郎の韻律工場

“み”と呼んで待てばはるかに“ぼう”となす夕空搾乳船二郎丸

おちんちんが嘘発見器の三郎スパイその反対の妹スパイ

体液の虹の濃度を勝ちほこりぼくは四郎砲声デザイナー

怖くないように五郎が平家物語調で撃ってくる機関銃

馬券売るひとみ破れた六郎を封印すべく裏文字「銀河」

金波っぱ銀波っぱ鶴先生のお弟子は月下に七郎ひとり

添寝用潜水艦の八郎を抱けば蕭蕭とおねしょしている

インバネス墨客九郎愛用の筆のうるさいオウムをしまう

招聘されまんなか病の十郎が腰まで埋まる大花時計

                                                「十人」


「十人」の方法は、高柳自身がどこまで意識的かは別にして、「回文兄弟」よりも更にアナーキーな詩的実験が試みられている。それは、制度的な言語環境そのものを「異化」する方向性である。短歌という詩型内部で制度的な言語環境を回避し解体する臨界点、高柳のこの試みは私自身にとっても非常に興味深いものだ。

固有名詞としての、ここでの一郎から十郎は、「人格」ないし「主体性」を形成する要素を、まったくと言っていい程持ってはいない。いや、そのようなものを意識的に攪乱し、意味を構築することを避けるために、短歌テクストの構造と修辞は機能している。

また、この歌に登場する人物が、自在に人間以外のものにもなってしまうことで、言葉が制度化される以前の未分化の状態をかいま見させる。言葉がお互いの意味を越境して得られる言語世界、言葉たちは「意味」というパラダイムを自在に通行してゆくのである。この意味の相互侵犯は、高柳短歌の特徴の一つとして、高柳の歌をとても魅力的なものにしている。


       


高柳のテクストを読むことはスリルに充ちた体験である。私たちを不確定から確定へと意味の世界へ導いてゆくようで、その方向性はいつでも逆転する。私たちは高柳のテクストを意味のレベルで捉えたと思った瞬間に、周りを見回すと不確定な言葉の世界に取り残されている。私たちが捉え得たと思ったものは、混沌としたテクスト(カオス)の後ろ姿でしかないのだ。高柳の短歌は、意味の境界を生成更新してゆくテクストである。

誤解を恐れずに言う。『潮汐性母斑通信』は、多くの他者たちとの「内的な対話」である。そして、高柳内部における「読者」との交感(通信)が内包されているのではないだろうか。この場合の「読者」とは、高柳の内的な他者との関係性の中から生まれる、高柳と未分化の内在化された「読者」である。そして、この「読者」とは、高柳の「ママの、祖父の、祖母の、伯父の、そして、兄の悲哀」が浸透している象徴的な「読者」であるだろう。

「高柳的存在に対する悲哀」これは短歌という詩型のみにしかすくい取ることのできない、永遠に裏返されたままの一枚のカードなのだ。

最後に、ここに取り上げることのできなかった、第一歌集『ユモレスク』と第三歌集『あたしごっこ』の中から、「高柳的悲哀」を感じさせるテクストを紹介したい。


やさしいかむごいか心離れても毎日同じ微笑を向ける

死出の山こえる頭上をふとよぎる遠い日の紙飛行機の影

いつもいつも視野のはずれに降っている目障りな葉が今日も色濃い

猟犬が掘りあてたものまたそっと埋めるくりかえし涙ぐむため

ふせられた帽子の闇に蝶たちは互いの翅でぼろぼろになる

怪獣の白煙黒煙吐くばかり誰も殺しに来てくれぬ日々

自転車で「不幸」をさがしにゆく少年日は暮れてどの道もわが家へ

瓜売りは瓜の顔して橋の上一つまた一つ投げ落とす瓜

泣き面に脱いでも脱いでもあらわれる帽子の妖怪負けるなピエロ

完成した羽の模様におどろいて蛾はあと少し子供でいたい

                                               『ユモレスク』


まちがってあなたが迷いこむように真っ暗になれあたしの夜

誰かしらつまづく音で毎晩のありかが知れるあたしのバケツ

むかし火事で燃えたピアノが化けて出る四畳半あたしのどまんなか

みんな淋しいのに忘られただけで黴びてあたしの蜜柑の弱虫!

捨てようか食べてしまおか古蜜柑誰かあたしを抱きしめなさい

顔かいてあげるからのっぺらぼうにおなりあたしの読者のみなさん

つま先の冷たささては月にまた吊してきたか罪もない鶴

盗んでとぬかしたあたし糠雨に濡れて重たいぬいぐるみになる

                                               『あたしごっこ』


(追記)
私はこの文章で、高柳蕗子のテクストを一首一首取り上げて解釈することを、意識的に避けた。私が通常の解釈の手続きを取らなかった理由は、この文章を読んでいただければ、理解してもらえるではないかと思っている。もしそうでないならば、ひとえに私の力不足のせいだろう。

高柳のテクストの一首一首を取り上げて解釈することに意味がないとは思わない。ただ、高柳の短歌にあえて解釈を施してみても、その解釈の言葉自体に私自身が虚しくなることが予想された。これほど通常の解釈を虚しく見せる短歌は珍しい。言葉を尽くして解釈の辻褄を合わせてみても、高柳の歌は意味の穴からスルリと抜けてしまう。私は何も入っていない解釈という網の中をのぞき込んでは、大きなため息を突くばかりなのだ。

多くのことは望まない。この文章によって高柳短歌の魅力が、少しでも理解して頂けたら私の幸いとするところである。

この文章を書き終わる頃に、『潮汐性母斑通信』を特集した「かばん」が届いた。この歌集を批評した高原耕治氏の「えーいえーんと永遠に」、雪舟えま氏の「ミジンコは花の眼」、どちらも両氏の個性があふれており、大変興味深く読ませて頂いた。


(付記)
意味的な差異以前にそれ自体が変動するものを「強度」という言葉で表すことができる。そして、言葉の「構成素―環境」としての区分が、「環境―構成素」の順番に逆転した場合、この「強度」そのものが前景化し、「強度」の変動に対応する事態が張り付けられる。それが、極端に行われれば、同じ「強度」を感知するものは、等しく等号で連結される。これはものごとの新たな脈絡を見出す一つの回路である。「構成素―環境」を逆転させ、裏返された環境の側から対応する事実を接続してゆく。このような逆転が、高柳のテクストにも起こっている可能性がある。

意味の生成過程で起こる裏返しの実例は、ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』で取り上げられている。「食べ物について語ることと、語を食べることのどちらが重要か」「ネコはコウモリを食べるかは、コウモリがネコを食べるかに等しい」意味が分節する際には、語は意味で接続するのではなく、意味の生成は語の接続を通じてなされる。未だ意味は生成していないからである。この考え方を高柳のテクストに応用してみることは興味深い。今後の課題としてここに付記しておく。

高柳の短歌テクストは、不確定から確定へと言葉が移動しながら、フラクタルな意味のカオスに一定の方向性を与える。しかし、いったん私たちが高柳の言葉と出会ってしまうと、まったく逆向きに作動していることを感知させる言葉の仕組みでもある。





11/03/15 up
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