詩の朗読ということ。

先週の本連載で「第4回歴程春の朗読フェスティバル」で、短歌と長歌のコラボレーションを読ませてもらったことに触れたが、あれから短歌と詩の朗読の違いについて無性に気になり始めた。その朗読会で求められていたのは「風」をテーマとする自作詩であり、文語定型の短歌は求められてはいなかった。それこそ場違いな乱入であったのかもしれない。事実そうだったのだろう。私はその日二次会に出席することなく帰宅したので、朗読について詩人の何方ともお話をする機会がなく、後から余計に気になったのかもしれない。

詩人の中には短歌や俳句を創作する人もいる。しかし、その人たちに詩の朗読と短歌の朗読の違いを聞いてみたことはない。また俳句の場合は朗読そのものが限られている。吟行句会で披講者が読み上げる句を聞くことはあるが、句を作った本人が朗読する機会にめぐり会うことは稀である。俳句が朗読に向かないとは思えないのだが、それについても深く考えたことはない。短歌、俳句、詩、そして川柳の朗読の差異を総合的に考えてみると、何か興味深い問題が浮かび上がってくるのではないだろうか。

短歌と詩の朗読について気になっているときに思い出した文章があった。歴程の同人が中心となって行われた朗読会に対するアンケートに答えたものである。既に10年も前のものであるが、詩の朗読を聞いた感想が興奮と共に書かれている。驚いたことに、詩の朗読に触発されて、拙い詩まで感想として挿入している。掲載された雑誌は歴程の同人で詩人の芦田みゆきさんが編集した「00‐12」という詩誌である。2001年10月に刊行されている。この朗読会は「とぶことば」の企画の一環として、2000年10月に浅草のギャラリー・エフで行われたものである。

詩と短歌の朗読の違いについても触れているところがあり、次に引用してみたいと思う。それにしても、譬喩を夥しく使った少し異様な文章である。



「詩が開く言葉のトポス」

朗読が行われる「場」にあまり参加したことのなかった私にとって、「とぶことば」における多くのすぐれた詩人たちの試みは、私の潜在的な意識を直截に刺激した。それは、私の内部に外部を開いてゆく官能にも似たものであった。内的な「他者」が外的な「他者」の創り出す創造空間からの言葉の波動を受信するということ。このスリリングな創造的な体験を、朗読というトポスに一回性の出会いとして描き続けること。私はいつの間にか詩人たちの言葉に、できるだけ無防備に身を任せながら、外部と内部の融合をどこまでも楽しんでいた。

もちろん、そのこと自体は私のありふれた恣意的な解釈に過ぎないことかもしれない。しかし、私は日常的な身体性から解放されていく中で、詩人たちの「声」が、「他者」と未分化な様々な「自己」を私の内部に創り出していくのを、驚きを持って受け入れていたのだ。詩が開いてゆく言葉の世界は、未知の要素を残し続けつつ、「他者」を開き「自己」を開き続ける。詩人たちの「声」に包まれた私は、意味の境界に立ち尽くしたまま、開放されていく言葉の喜びを心ゆくまで味わっていた。このときの言葉は「私」でもあった。 声が開いていく異質な空間は、意味が自分たちの日常性を脱ぐ「場」である。そして、その「場」で、私は「私」の重い鎧を脱ぐ。私の内部を夥しい滴が伝ってゆく。「水滴」となっていっせいに落ちる言葉……。 詩人の「声」は遠くから響き続けている。何ものとも交換できない「声」……。何ものとも交換できない言葉が、「私」の姿を形作ってゆく。そのときの体験に基づいて出来たのが、次の拙い詩である。


>>私を脱いで船がゆく

私を脱いで船がゆく
船は水を語りながら
水は私を語りながら
どこまでも曳かれてゆく
「あなたを水で語りなさい」と私は言った
背中だけしか見せていない詩人は
手を上げて軽く振ってみせた

船がゆくのは古い土蔵の中であり
青空の一隅でもあった
やさしい風は言の葉を船に乗せて
私を言の葉に乗せてすましていた

私を脱いで船がゆく
船は「あなた」の声を頼りに
どこまでもどこまでも
運ばれていた


この詩を恐る恐る妻に見せると、「甘いね……」とひとこと言って、後は話題を逸らしてしまった。彼女は私と同じように「とぶことば」の朗読を聞いている。しょせん正直さだけでは、「他者」を開くトポスにはなり得ない。言葉の力を解放する機会など、私には容易なことでは訪れることがないのだろう。それだけに、「とぶことば」の多くの朗読は、深く私の心に沁み入るものであった。

しかし、こんなに拙いものであっても、「とぶことば」の朗読を聞いた後に自然にできたことが、私にはとても嬉しかった。その嬉しさも手伝って、恥ずかしげもなく、このような場に載せてしまったのかもしれない。あの時の私が、多くの詩の言葉に開かれていった喜びは、この詩の中に、確かにその痕跡をとどめている。私はこの詩を口ずさむと、あの朗読会のことを思い出す。もちろん、ただの懐かしさからではない。私を幾度も幾度も、表現することの意味の場に連れ出していくのだ。私は自問自答を繰り返す。いったいお前が目指す表現とは何か。どこに向かって前進し……あるいは後退をしているのか。私は自分の中で閉じていく「私」に抗いながら、詩が開く言葉のトポスを希求した。朗読という一回性の体験が私をここまで捉えたことが、素直な驚きとして未だに尾を引いている。

この時の体験が、私を初めて朗読の実践の場へと駆り立てたのではなかったろうか。私は4月28日に「マラソン・リーディング2001連鎖する歌人たち」という短歌の朗読会に参加した。場所は築地本願寺のブディストホールである。

「詩」の朗読に比べて「短歌」の朗読では、「私性」の周縁で閉じていくテクストが多い。それについては、歌壇内部では、一般的に短歌の構造的な特性として認識されている。近現代短歌100年の営為も、「私性の拡張」という言葉で集約されるほど、短歌と「私性」の結び付きは一見強固である。私は舞台の前で展開される、緩やかな円、鋭い円、柔らかい円、硬い円……など様々な円の姿態に聞き入りながら、閉じていく心地よい言葉に身を任せていた。

私は自分の順番がくるまで、強いて何も考えないように、ぼんやりと人の朗読を聞いていた。私は自分の朗読を、別に何の演出もなく、ただ読めばいいだろうくらいにしか考えていなかった。自分の朗読の順番が近づいてくると、さすがに緊張感からか、朗読している自分の姿と、朗読し終わった自分の姿を、交互に心の秤に掛けていた。

……歌人たちの創り出す完結感のある言葉には、本当にどこにも裂け目がないのだろうか。「私性」の言葉のもとに、何の破綻もなく「他者」をまんまと隠蔽して閉じてしまうテクストなど存在することができるのか。歌人の意識の中に、言葉の裂け目にたいする意識が、もしもまったくないのならば……。私は漠然とした「不安」に駆られながら、それでも、次々と読まれていく短歌を何ごともなく楽しんでいた。

それにしても、舞台から私の方にやって来るあの「声」は、いったい誰の声なのだろう。……私は自分の朗読の順番が回って来たとき、客席から平行になるように真横に立ち、闇の一隅に向けて徐に「私」のテクストを読み始めたのだった。




11/04/19 up
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