小池正博句集『水牛の余波』を
読んで思ったこと。
(『水牛の余波』(2011年3月:邑書林/2100円)
>小池正博の第一句集『水牛の余波』を読みながら、久しぶりに川柳を堪能した。川柳には言葉の意味の底が抜けたような自由さがあり、その自由さが楽しめなければ、意味の難解さの前に考え込まざるをえなくなる。そう書きながらも小池の句集を読みながら、首を傾げることが何度かあった。川柳を読み慣れていないことも原因だろうが、もっと根本的には、言葉に対する私の感覚が小池とは異質であることによるのだろう。
>ただ、そうではあっても川柳という詩型の性質を念頭に置いた上で、テクストに向き合えば、詩型が要求する読みの前に、その都度立たされていることの緊張感を楽しんでいる。川柳の性質を私がどれだけ理解しているかという限界はあるが、小池の句集を堪能しながら一気に読み終わったところをみると、言葉自体に感応したところもあったのだろう。
>私が感心した句の中から、いくつかを次に引用してみる。
>蒲鉾を切ればはじまる風遊び
>体液を沸々こぼす蝶の谷
>猫の手でもてなしている京料理
>梅瓶の肩から鶴を飛び立たす
>中二階へ迫って水の無表情
>戦場は有機野菜でいっぱいだ
>流氷の上で昨日の髪を切る
>弔辞読むとき蛇の美しさ
>黄昏のふくろう>パセリほどの軽蔑
>東雲の足からませて二艘の船
>ひかり野へ線を一本連れていく
>黒豆の笑いやむまで煮つづける
>雑炊の中で動いた鳥の羽
>ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足
>1句目、初句に「蒲鉾」を持ってきたのがポイント。「蒲鉾」は、昔、ガマの花の穂の形に似ていたところから付けられた名前と言うが、「蒲鉾」で、「ガマの花の穂」を意味するところから、この句が詩として生きている。私が同じ発想で作るとしたら、「蒲鉾」を「枯れ葦」にしてしまうだろう。これでは俳句崩れで川柳にはならない。2句目が内在するエロスにも感心した。「蝶の谷」が効いている。3句目の洒落っ気も捨てがたい。4句目は多義性があって少々難解だが、こちらの想像力が験されているようで楽しめる。5句目には衝撃を受けた。もちろん、3・11以後の句ではないが、あの津波の映像を見た者にとっては、作者の意図を離れて、こころ穏やかには読むことはできない。ましてや、津波から生還した人にとってはこれほど恐ろしい句もないだろう。もの静かでグロテスクなリアルさが内在している。
>6句目を単純な戦争批判と読んだのでは作者の意図に反するのだろう。もっとしたたかな皮肉が効いているようである。7句目、「流氷」と「昨日の髪を切る」という取り合わせが軽妙。8句目の取り合わせの意外性が句の世界を詩的に拡張している。9句目は、「黄昏のふくろう」の性格を想像して川柳的に読み取ったもの。10句目は、東雲の空の下、二艘の船で逢い引きでもしているのか。「足からませて」が情事を暗示しているようで艶っぽい。その意味では「東雲」も効いている。
>11句目は、この句の内在する詩的感覚が私にぴったりとはまる。とても好きな一句。12句目は、対象に対する観察眼に感心する。13句目は、こちらの感覚を逆撫でするような不気味さがある。この句も詩的感覚のすぐれた一句である。14句目は、ジュール・ヴェルヌが『海底二万マイル』の作者であったことを念頭にして読んだが、そんな必要はないのかもしれない。「髭」と「海老の足」の取り合わせの妙を楽しめばいいのだろう。川柳に理屈はいらないというのは、このような句を読むときの言葉かもしれない。
>私はここに引用した14句をどれもいい句だと思っているのだが、実は川柳という視点から選出した場合には、もっと違う選択が可能であることを思い知らされる。『水牛の余波』の帯には、川柳作家の樋口由紀子が「集中十句」を選んでいて、その選ばれた句を見ると、私が選出した句とは2句しか重なっていない。「黄昏のふくろう」と「ジュール・ヴェルヌ」の句だけである。その他に、樋口が選んでいる8句は、次のような句である。
>プラハまで行った靴なら親友だ
>はじめにピザのサイズがあった
>応仁の乱も半ばに仮縫いへ
>鳩の時間だ早く鬘をかぶりなさい
>蟹味噌を舐めて時間の牙を抜く
>カモメ笑ってもっともっと鷗外
>洪水が来るまで河馬の苦悩教
>もっと托卵ふさぎの虫は詩に変わる
>こうやって引用してみるとどの句にも読んだときの印象が残っている。終わりの二句には私も付箋を付けていて、引用しても良かったのだが、結局他の句を選んでしまった。私の選出と樋口の選出の違いは、言葉に対する感覚の違いと、川柳に対する認識の深浅によるものだろう。私は短歌を作る以前に、俳句だけを作っていた期間があり、そのことも句の選出に影響しているのかもしれない。最初に、俳句のように読んでいるところがある。もちろん、それでは無理なので、言葉に即して思考を柔軟にしながら意味を飛び越えていこうとするのだが、どうしても邪魔が入る。この邪魔は私にとって一概にネガティブなものとばかりは言えないで、私の創作の核心部分にも触れていくものである。それゆえに、容易には捨て去ることができない。それは私が川柳作家にはなれないことの理由でもあるかもしれない。
>樋口由紀子の評論集『川柳×薔薇』を読むと、樋口は俳句が苦手でその良さがよく分からないという。また、短歌の「私」性と比較して、川柳の「私」性の違いを分析した好論を書いている。二人の句の選出の差異から、短詩型の表現の問題が導き出せたら興味深いと思うが、今は準備不足である。樋口の評論集『川柳×薔薇』は、本連載で次回取り上げる予定にしている。
>川柳と俳句の違いを「切れ」のあるなしで説明している批評をよく見かけるが、それだけではどうも区別ができない句があるようである。現代俳句と現代川柳の境界線でどのような問題が浮上するのか、小池の句集を読んで、改めて興味が湧いてきた。
>また、現代短歌は本来の狂歌の性格をも内在していると考えられるが、俳句と川柳のような表現の本質に基づく区別が行われていないのはなぜなのだろうか。この点はこれまでに論じられることがなかったが、短歌の価値観の昏迷にあって、現代短歌に内在する狂歌の問題を考えてみるのも必要だろう。短歌として作られているものを、それは短歌ではなく、表現の性格からみると狂歌であると一方的に指摘していくのは乱暴だが、伝統派から前衛派まで広く表現されている俳句に属さない川柳があることに、歌人はもっと敏感であってもいいのではないだろうか。
>短歌と狂歌の線引きをするのは確かに困難だろう。しかし、その試みは、現代短歌に対する価値観をも一変する要因を内在している。自分たちだけが正しいとする、一方的な価値観を押し付けるぐらいなら、いっそ、短歌であるものとそうでないものの本質的な議論を行っても構わないのではないか。もちろん、価値観の昏迷こそに意味があるという考え方もある。むしろ、短歌と狂歌に分けてすっきりとするよりも、表現の昏迷に詩型の発展性が胚胎しているとも考えられるだろう。そうではあっても、短歌に内在する狂歌の問題を取り上げることは不毛な議論ではない。
>小池は「あとがき」に「川柳を作っていることに迷いはないが、『川柳とは何か』についてますます迷いが深くなっていく」と記している。それは、歌人や俳人にとっても同様だろう。短歌、俳句、川柳これら三種の詩型が、それぞれの問題意識をどのような形で共有しつつ交流できるか、それは詩型の存続に関わる重要な問題でもあるはずだ。
>小池正博の句集は、改めて川柳の面白さと、表現の問題意識の前に立たせてくれた。
11/04/27 up
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