杉田久女伝説について思ったこと。


近代の詩歌の結社には、ホモ・ソーシャルな性格であることにより、組織と文学理念のアイデンティティを担保している側面がある。女性は組織の内部で一定の地位を得られるが、組織とその文学理念に関する男の論理を逸脱する行為があると抑圧が加えられるか組織の内部に組み直され、場合によっては放擲される。そこでの活動は男性の論理が優先され、女性はあくまでもその原理の内部でのみ生かされているのが通常である。

それでも表現の理想を求めて活動するには、藝術上の問題に先立つ性差による対峙と、日常への闘いが強いられる。藝術上の問題は、性差による日常の困難とともにあり、抑圧を離れて藝術上の問題だけが浮上することはない。そこではまるで、生活が藝術に対する復讐でもするかのように、才能ある女性は生活と藝術のはざまでひき裂かれてゆく。

近代の結社が内在する男性原理は、家族主義にも合致し、その正当性が担保されている。結社の多くは絶対的な権威(家父長)を頂点としたヒエラルキーを形成しており、家族主義にもとづく身内の論理が、藝術に優先して求められるケースも珍しくはない。

戦後、釈迢空がアララギ批判として発表した「女流の歌を閉塞したもの」は、男の側から、結社が内在する男性原理をも批判したものだが、これは迢空がゲイであることにより可能であった。それは例外的なケースである。女性に対する性的な欲求が強ければ、そこに内在する支配欲は、女性を男性原理の内部に絡め取り従わせることが、まるで男女の営みの普遍的な摂理ででもあるかのように自然さを装う。よって、ヘテロでありながらフェミニズムの視点を内在し、それに基づく批評精神を発揮するためには、内省を伴う自己否定的な見解が含意されていなければ不可能である。

近代の結社に所属した男たちと、同じ結社に所属している女性との間に、藝術における価値の平等が担保されることは困難である。しかし、逆説的ではあるが、男性原理による抑圧が、女性の作品に有機的に作用する場合も完全には否定しきれない。そのこと自体はけっして肯定されるべきものではなく、結果や偶然にしかすぎないが、創作における有機的な要素は、必ずしも、理想的な創作環境によって担保されるものではない。

だが、創作とは直接関係がないところで、差別的な扱いを受けたことに関しては、正当な修正が加えられるべきであるし、真実が何かを追求する必要もあろう。


次の句は私が敬愛する俳人の一人、杉田久女の代表句である。


  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

  朝顔や濁り初めたる市の空

  足袋つぐやノラともならず教師妻

  紫陽花に秋冷いたる信濃かな

  谺して山ほととぎすほしいまゝ

  菊の香のくらき仏に灯を献ず

  たてとほす男嫌ひの単帯


杉田久女が、高浜虚子を崇敬してホトトギスに所属し、すぐれた俳句を創作したことは誰もが認めるところであろう。虚子は久女の才能を高く評価し、「ホトトギス」の雑詠欄の巻頭に三度載せている。俳句史上に名を残す俳人が、群雄割拠していた当時の「ホトトギス」の巻頭になることが、どれほどの栄誉であるかは想像に難くない。虚子は「ホトトギス」の久女追悼の文章の中で、「久女俳句は天才的であって或る時代のホトトギスの雑詠では特別に光り輝いていた」と称讃している。これは、虚子の久女俳句への偽らざる感想だろう。このように、虚子は久女のすぐれた才能を認めていた。しかし、一方には、虚子の久女に対する仕打ちが、久女の悲劇を生んだのではないかという説もある。

久女は、ホトトギス同人からの除名や、夫婦仲の問題、病死した場所が精神病棟であったことなどから、その人間性を貶める記述や小説が書かれ、一般的なイメージが創り上げられている。いわゆる、久女伝説である。例えば、ウィキペディアの「伝説の久女」の項には、次のような記述がある。


(前略)才能ある俳人であった久女は、夫の理解を得られず、師の高浜虚子にも疎まれ、狂気のうちに亡くなったというイメージである。『花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ』の『紐』に縛られた女性を重ねることも容易である。しかし実際の久女はエリートの家庭に生まれ、当時としては比較的自由に生きた女性だった。



最近の俳句辞典では久女伝説が修正される傾向にあるが、未だに久女に対する不当な扱いが終わったわけではない。そこで、久女の汚名を晴らそうと、久女の縁者や研究者が久女の真の姿を求める活動を行っている。そのような活動をしている一人に谷地元瑛子がいる。谷地元は国際連句協会(エア)に所属し、連句を海外に広く紹介する活動を行っている。アメリカの大学で英語英文学を学び、国際感覚を豊かに身につけた教養人である。

谷地元の久女に関する評論は、久女の復権に向けて、その不当な扱いへの抗議と修正を目的としたものである。久女の悲劇の核心にはホトトギスの除名事件があり、虚子の久女への態度が悲劇の元凶である考えている。久女は虚子を崇敬していたが、虚子は久女の才能を認めつつも理不尽な扱いを行う。

虚子の次女、星野立子の俳誌「玉藻」創刊のすぐ後に久女は俳誌「花衣」を創刊する。しかし、これは5号で終刊となり、その一月後に久女はホトトギスの同人に推挙される。この同人への推挙には「花衣」の終刊が条件ではなかったかと谷地元は推論している。「玉藻」を創刊し、俳壇に地位を築こうとしている立子にとって、「花衣」の存在が邪魔になると考えた虚子の企みをそこに見ているのである。そして、未だ謎とされている、同人推挙4年後の突然の同人除名を、虚子の私意的な悪意によるものであるとする。つまり、「花衣」の終刊から、同人への推挙、そして除名は、虚子によってすべて仕組まれたものであるというのが谷地元の推論である。

この点に関して私には谷地元の推論が正しいものかどうかの判断はできない。おそらく確かな資料に基づくものでない限り、その判断は誰にも付けかねるだろう。ただし、久女の同人除名に、先に書いたような近代結社の男性原理が作用していたことは想像される。虚子個人に特化されるだけではなく、近代結社の男性原理が作用することで、久女の悲劇が招来したと考えられなくもない。たとえ、虚子個人の思惑がそこに含まれていたとしても、虚子の判断に疑問を持つ者がなければ、同人一同が虚子の判断を追認したのであり、結社の総意として久女の同人除名がなされたと見なすこともできる。

谷地元はそのような結社のあり様についても批判を加えているが、結社に所属することには、そのような点を受け入れることが暗黙の了解であり、受け入れられない者は初めから結社には所属しない。また、結社に近代主義的な男性原理があったとしても、自分にとってのメリットがあれば所属するであろうし、そうでなければ所属はしない。そこに、男女の差はない。

久女は同人除名後も、一会員としてホトトギスにとどまりながら俳句を発表する。この点を、当時の俳壇における虚子の影響力からだけ推し量るのでは、久女の意に添わないのではないか。やはり、虚子を俳人として尊敬し、生涯その俳句を絶対視していたからではないかと思われる。また、俳人久女にとっては、その点が一番大事であったのではないだろうか。

確かに虚子が身内びいきであったことが、久女への仕打ちに含まれていなかったとは言い難い。ただし、そのことによって、虚子は久女の俳句を貶めなかったはずである。もし、虚子が身内びいきであるがゆえに、久女の句を具体的に批判し貶めるような言動が残されているのならば、そのときには、虚子に対する痛烈な批判が加えられなければならない。

久女は句集を上梓するために、虚子に何度も序文を請うたが結局は書いてもらえず、生前に句集を出版することはかなわなかった。その点にも虚子の悪意を見ることは容易であるが、果たして、虚子の真意がどこにあったかは図りがたいものである。

私には久女の悲劇をめぐる、谷地元の主張と気持ちが良く理解できる。しかし、久女伝説からの真の復権が、虚子の行為や人格を貶めることからなされるとは思えない。男性原理の支配する結社にあって、その抑圧の中で、久女俳句が実現した芸術の達成とその本質を、如何に理解し位置づけていくのか。久女の残したテクストから、久女の真の復権と新たなる評価が成されないか。私は谷地元にその点についても目を向けてもらいたいと思っている。



12/03/13 up
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