連載再開にあたり、
金井美恵子の現代短歌批判から思ったことなど。
>金井美恵子が現代短歌に対する痛烈な批判を行った「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」が昨年の秋から暮れに話題になり、私もその動向を注目しながら見守っていた。
>2012年の「短歌研究」12月号「短歌年鑑」の座談会では、穂村弘が金井の批判を冷静に受け止め、短歌共同体と表現との微妙な関係や、結社と皇室の関係が可視化された問題について率直な感想を述べている。
>また、同じ座談会で金井の批判に対し最も憤っていた島田修三は、2012年12月に刊行された角川の「短歌年鑑」に金井の批判に応える論考を発表している。だが、座談会で憤りを隠さなかった島田の論考は金井への反論ではなく、現在の歌壇に対する問題提起として、金井の批判の正当性をほぼ認めた形に終わっている。島田はこの文章の冒頭近くに次のように記している。
>この痛烈な批判のつぶては的を射ているかといえば、昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている。おそらく、歌よみのなかにも溜飲を下げるような爽快感や後ろぐらい痛みを覚えている者が少なからずあると私は睨むものである。 「もの哀しさについて」
>島田の書くように金井の短歌批判によって溜飲を下げている歌人や、後ろ暗さを覚えている歌人は確かにいるのだろう。しかし、これは変な話だとしか思われない。金井の批判はある特定の歌人だけを擁護するためにも批判するためにも働くわけではない。大抵の歌人は金井の言う「共同体的言語空間」の恩恵に、多かれ少なかれ浴している。その恩恵の差によって、差別感やルサンチマンを抱くことがあったとしても、恩恵からまったく無縁であることはないだろう。
>それは負の側面と正の側面を両方合わせ持つものであり、この正負の使い分けが歌壇内部の地位や関係の親密度によって異なることで、歌に対する批評や価値に明らかな不合理性が生まれる。そこでは、およそ褒められるものではないものが称讃されたり、その逆にすぐれたものが黙殺されることも起こり得る。批評の不在は、相手によって何とでも塗り替えられる批評の言葉によって、その無惨な姿を曝すものである。それも、「共同体的言語空間」の恩恵を背景にして生まれるものだ。
>ただし、「共同体的言語空間」の恩恵を当てにしなければ、短歌は価値を担保することができないのならば、それはこの詩型の構造的な性格であり、金井の批判を免れることのできる歌人はいなくなる。その結果、金井の批判の短歌への無理解を歌人の側から言挙げすることにもなっていくだろう。
>だが、短歌が文学表現であるのならば、「共同体的言語空間」の恩恵を踏み越えたところに、そのテクスト自体の本質的な価値が存在し得るはずである。もし、そのような価値を見いだし得ないのならば、短歌は文学とはおよそ無縁な言語表現であるということだ。
>短歌の批評の真理は、「共同体的言語空間」の恩恵とは次元の異なる批評の場で生まれる。テクストと批評者の孤独な対話には、本来「共同体的言語空間」の恩恵が入る余地はない。また、誰が作ったものであったとしても、批評の平等性が担保されないのであれば、批評はいつでも自分たちにとって都合のいいものに堕してしまう。
>「短歌研究」の座談会では憤りを隠さなかった島田が、その後に金井の批判の正当性を概ね認めたことを、私は重く受け止めたい。また、そのように重く受け止める歌人が何人いるのかが、短歌の将来にとっても大事なことであると思われる。
>私は島田が書いた「もの哀しさについて」を読み、島田の歌人としての誠実な姿勢に感心した。歌壇や、結社の中心に位置する島田が、リスクをも承知の上で書いた文章を真摯に読まずして、短歌の将来を語ることに私は疑問を持つものである。島田の「もの哀しさについて」を読んだ上で、もう一度金井の文章は読み返されるべきである。金井や、島田の文章に真摯に向き合い、現代短歌の問題点を共有するところから、今後の短歌への希望が生まれてくるのではないだろうか。
>なお、金井の批判と島田の文章に触れながら、山田消児が「詩歌梁山泊」の「短歌時評」にとてもいい文章を書いている。ぜひお読みになることをお薦めしたい。(詩歌梁山泊・短歌時評第85回、山田消児。2013年01月18日)
>さて、「共同体的言語空間」の恩恵を初めから当てにしていない歌人も、数は多くはないが存在する。例えば、私の少し上の世代では石井辰彦がそのような歌人であり、ずっと下の世代では瀬戸夏子がそれにあたるのではないだろうか。
>石井が求めているのは、歌人同士で分かり合い歌の価値を補完し合うような読者ではない。自己の歌に対する純粋な読者である。また、自己のテクストとの読みの闘争をなし得る読者であろう。テクストとの一対一の対峙の中で、創造性のトポスを拓く言葉との遭遇が、短歌共同体内部の価値体系からの超越性を含意することを目指しているのである。それは既成の「共同体的言語空間」に対する批判性を内包したもので、短歌共同体からの逸脱を必然的にもたらすものである。
>瀬戸は『そのなかに心臓をつくって住みなさい』という刺激的な第一歌集を昨年の7月に上梓しているが、今までのところ短歌総合誌でこの歌集の書評が掲載された形跡がない。瀬戸の短歌に対する独自の価値観と、それにもとづくアプローチは、短歌表現とは何かを思考すべき根源的な問題を含んでいる。それは現代詩とも交錯するもので、延いては文学表現とは何かという問題ともリンクしてゆくものである。
>瀬戸の歌集の書評が書かれないことにはいくつかの原因があるだろう。しかし、その最も大きな原因は、石井のテクストと同様に、既成の短歌共同体内部の価値体系では図ることができない、超越性を内在していることにあると思われる。
>金井美恵子の短歌批判とそれに応えた島田修三の返答は、私に改めてこの連載を再開させることを後押しした。以前のように短歌に関係する著作だけではなく、自分の興味の赴くままに詩や俳句なども取り上げてみたいと思う。
>次回は、永井祐の第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』についての感想を書いてみたいと思っている。
>なお、石井辰彦と瀬戸夏子の歌集についても、準備が整い次第書きすすめていく予定である。
>それではどうぞ、よろしくお願い致します。
13/03/21 up
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