永井祐第一歌集
『日本の中でたのしく暮らす』を読む、その3

思いがけない仕事が重なって、本連載も4月18日以来約2ヶ月間休止してしまった。お読み頂いていた方には誠に申し訳ない。この間には、私が所属する未来の仲間やその他の歌人たちの素敵な歌集がいく冊も届けられ、本連載で紹介したいと思いながら今日まで果たせずにいる。石井辰彦や瀬戸夏子の歌集についても未だ手付かずである。
 永井祐の短歌については今回を最後としたい。永井の歌が関心を持たれながら歌壇で顕彰されないことは、短歌としての損失であると思っている。そのことに気づいている私よりも上の世代が何人いるのかは分からないが、有力結社を中心とした歌集の顕彰のあり方が変わらない限り短歌の不幸は続いてゆくだろう。

昨夜みた映画の中に外人が罪悪感にふるえるシーン
外国の映画の中のカップルがよくわからない言葉をしゃべる
校門の前の通りの自販機の灯りに白く桜がうつる
オフィスビルの前の広場で会話をし芸能人とか知らないと言う
となりに座った女性が赤いセルシート出して勉強してる夕暮れ
暮れも押しせまったある日横浜へ凝ったバーガー食べにいきたい
新日曜美術館美の巨人たちとりためたビデオを貸してくれる


一見なんでもない素材や内容をもとに創造された世界が、凡庸ではない表現のマチエールを胚胎しているのが永井短歌の特徴の一つである。それは、短歌によって表現された言葉の世界の質感が、永井の世界として認知されるだけのリアリティーを担保しているからである。ここに引用した歌にもそのような特徴は見られるが、あまり成功しているとは思えなかったものである。しかし、永井の歌の性格は却ってこのような歌から理解されるものではないだろうか。

ここ数年のことだろうか。短歌を批評する場面でフラットいう言葉が流通している。永井の歌についてもそのように言われることがあると思うが、文学表現におけるフラットは読者の設定と距離の取り方に巧みでなければうまくはいかない。この場合、技巧的という言葉を使うことが適当かどうか問題はあるが、フラットな歌を作ることほど技術的に難しいものはない。それは表現内容の場面の切り取り方とその効果を計算できた上で、自分の設定する想像上の読者との折り合いをどこで付けるのか意識的でなければならない。先に引用した歌はその点とても意識的である。

本来フラットな歌は舌頭に千転するところから求められる。また、対象との距離の取り方に自覚的であり、有効射程の短いリアリティーが必然的に求められる。永井的な主体はそのような自覚のもとに形成される。また、それを前提にして言葉のヒエラルキーが構造化されてゆく。

私は引用歌をあまり成功していないと判断したが、永井の表現世界に親和性を持つ読者にとっては、これほどリアリティーのある短歌もないのではないだろうか。彼らにはこのような歌の世界が自然に受け容れられるのだろう。残念ながら私にはそこまでの親和性はなく、永井の言葉によって選ばれてはいない読者である。

「早稲田短歌」42号の「永井祐ロングインタビュー」に、永井の「一字空け、二字空け」の歌について言及しているところがあった。永井は名詞や動詞、助詞とかを選ぶのと同じ感覚で「一字空け、二字空け」を考えているという。また、穂村弘や加藤治郎のように二物を衝突させる方法ではなく、回避させるために使用しているというのである。これは歌を修辞的にフラットに見せるための一つの工夫でもある。

字空けの歌と言えば、私には即座に山中智恵子や塚本邦雄の技法が思い浮かぶ。私はこの二人の字空けの技法について、俳人の富澤赤黄男の影響があったのではないかと類推し、本連載でもそれについて言及した小論を書いた。また、俳人の高原耕治は、富澤赤黄男と高柳重信を視野に入れ、二人の字空けの本質をロゴス的存在観念の亀裂という言葉によって説明している。

短歌と俳句では詩型の構造上、同一の次元で字空けの問題を語ることはできない。また、字空けの問題は表層的な言葉の機能に焦点を絞って解決できるものでもない。しかしながら、永井の歌の特徴の一つとして、字空けの問題が取り上げられているのはとても興味深い。短歌における字空けの技法は、短歌表現の本質に即して考えられてよいものである。

加藤、穂村の字空けのある歌と、永井の歌をならべて読んでみたい。


荷車に春のたまねぎ弾みつつアメリカを見たいって感じの目だね
『サニー・サイド・アップ』
ぼくたちは勝手に育ったさ制服にセメントの粉すりつけながら
書きなぐっても書きなぐっても定型詩ゆうべ銀河に象あゆむゆめ
ひとしきり母の叫びが風に添う雲のぷあぷあ草のれれっぽ 『マイ・ロマンサー』
だからもしどこにもどれば こんなにも氷をとおりぬけた月光 『ハレアカラ』
ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん
『昏睡のパラダイス』
以上、加藤治郎


かぶと虫まっぷたつと思ったら飛びたっただけ夏の真ん中
『ドライ ドライ アイス』
きがくるうまえにからだをつかってねかよっていたよあてねふらんせ
夜明け前誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている
『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
天沼のひかりでこれを書いているきっとあなたはめをとじている
ハロー夜。ハロー静かな霜柱。ハローカップヌードルの海老たち。
甘酒に雪とけてゆくなぜ笑ってるか何度も訊かれる夜に
以上、穂村弘


目を閉じたときより暗い暗闇で後頭部が濡れてるような感じ
『日本の中でたのしく暮らす』
終電のホームにあった水飲み場足のぴりぴり星のぴりぴり
山手線とめる春雷30才になれなかった者たちへスマイル
それは誰かが照らした桜何回も死んだあと2人で見上げたい
二年ぶりの徹夜の夜は雪だったメールのたくさん来る夜だった
今が過去になる時間とはいつのことご飯食べよう電話で誘う
以上、永井祐



3人の歌を並べてみると、加藤と永井の歌の違いははっきりとしている。加藤の歌の二物衝撃は、深浅はあるが基本的に短歌的な喩の効果に添っている。永井は短歌的な喩の解体に向けて使用しており、二物の脱臼によるフラットな歌の世界の創造を行っている。また、穂村は加藤と永井の中間に位置するような字空けの技法を用いている。

以上は大ざっぱな感想にすぎないが、気がついてもらえるだろうか。私が選んでいる永井の歌は、永井の歌の中では、短歌的な喩の解体が徹底されているわけではなく、むしろ、二物の衝撃を受け容れる余地が残されているものである。特に4首目まではそのような歌である。永井にはその意識や自覚はないのかもしれないが、上句と下句の感応によって、散文化のできない領域に亘る詩的な世界が表象している。

そして、私が永井の歌の中で無条件にいいと思う歌は、むしろそのような傾向にある歌である。これは、私が永井の歌への適応能力に欠けているということであろうか。それとも、短歌という詩型の構造的な特質を、完全に解体したときの短歌表現の詩性に疑問を抱いているということなのか。私はそこに永井の短歌に対する未だに解けない不安を抱いているのだと思われる。

短歌の構造的な特質を逆手に取った永井の歌が、短歌表現の拡張と来たるべき短歌の一つの姿を示していると断言できないのはそのためである。私はもう少し答えを出すことを先延ばしにして、永井短歌の行く末を見守ってゆきたいと思う。



13/06/18 up
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