堂園昌彦第1歌集
『やがて秋茄子へと到る』を読む、その2。

堂園の歌の評価に関して確信のもてないところがあ る。表現された世界に共感しながら、そのような不安を抱くのはなぜなのか。私が単に堂園の歌を読めていないのであれば、それは私の無知を責めれば済むこと である。

歌の批評に困ったときに、「現代的な短歌」だとか、「新しい短歌」という言葉が安易に使わ れるが、それは批評の放棄と言われても仕方がない。テクストの本質が理解できていないときに、その場しのぎで使っている言葉にすぎない場合が多く見られ る。堂園の歌は私には厄介なものの一つで、テクストの本質が見えそうで見えない。そこに、不安を抱きながら同じところをぐるぐると回っている。歌の理解に 手が届きそうで届かないのである。

前稿を書いてからかなりの時間が立ったが、その不安はいっこうに解消されていない。むし ろ、評価の確信から遠ざかってゆくようである。情けない話だが半ばあきらめを抱きながら本稿を書いている。

『やがて秋茄子へと到る』を読んだときの最初の印象をメモしたものを、次にいくつか書き出してみたい。今では少し違う感想を持っているが率直な印象が興味 深い。


泣く理由聞けばはるかな草原に花咲くと言うひたすらに言う
 (表現の意識化が見え隠れしている)
 
寒くなる季節の中で目を開けてかすかな風景を把握する
 (稀薄な存在感)
 
変わりゆくものがはらはら美しくある道端に名刺を貰う
 (存在の意味――ハイデガー)
 
順光が喉に当たって散る日にも悲しいまでに心は動く
 (存在性・実存)
 
すさまじい秋日の中で目を瞑り優れた人達へ挨拶を
 (アイロニー)
 
生きながらささやきながら栗を剝く僕らは最大限にかしこく
 (ペーソス)
 
あなたは遠い被写体となりざわめきの王子駅へと太陽沈む
 (距離・存在への感傷性・距離)
 
追憶が空気に触れる食卓の秋刀魚の光の向こうで会おう
 (生と死の距離)
 
きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く
 (時間・存在と非在・相聞・距離)
 
春とあなたの価値は等しい夕闇の海で貰った海の一粒
 (感傷性の共有の意識)
 
過ぎ去ればこの悲しみも喜びもすべては冬の光、冬蜂
 (感傷性の共有の意識)
 
蹴飛ばした石の数々から花が咲き出すように鼓動を交わす
 (交感・感傷)
 
生きるから花粉まみれて生きるからあなたへ鮮やかな本と棚
 (生への悲しい讃歌)
 
生きている限りは胸に茄子の花散らし続ける惑乱にいる
 (存在、生へのどうしょうもない悲哀)
 
泣いている春の子供を見かけたらその子の和紙をちぎってやって
 (ねらいすぎか)
 
暗く優しいあなたの知識の泉からあらわれる敬虔なかたつむり
 (あなたは浪漫派の詩人?)
 
けて君のおさげを編み上げて悲しくな れなかったのは海のせい
 (新海誠のアニメが内包する世界の悲哀に通じるものを感じるのは気のせい、この歌には限らないが……)


これ以外にも似たような印象を記した歌が数多くある。
堂園の歌の存在への感傷性は相聞の歌に顕著に表れており、それが詩質に深く関わっている。 存在への感傷性、自己の延長線上にある相手(恋人・他者・詩人など)との相聞・対話は、歌集を構成する基本的な要素だろう。自己と自己内部の他者との内的 な対話に、生への感傷性と自己愛が内包されている。また、浪漫主義的な感傷性に、キーツやシェリーの詩の影響があるのかもしれない。

感傷と悲哀の虚構の世界を、読者に共有させる手腕に創作意識が感受されるが、その意図が露 骨になると、虚構に表出する他者と関わる内的な詩的世界は破綻する。例えば、以下に引用する歌の場合は、特に下線の部分に、読者への過剰な働きかけが見 られ、私には歌の成功を阻害しているように思われた。
(4首目の歌は、「岩塩」というのが気になる。塩の塊ならば問題ないが、岩塩を指で砕くことはできない。)

いくたびも心の中のゴーギャンに色彩を問う色彩は咲く
 
季節外れのいちごを持って意識には血の川が流れているよゴーギャン
 
恋だけが涙を汚す瑠璃紺の街には花束が紛れ込む
 
泣き顔に意志や涙を光らせてあなたが指で砕く岩塩
 
色彩と涙の国で人は死ぬ僕は震えるほどに間違う
 
薔薇色の食事を言うから君はただその品目を書き留めていて
 
死ぬ気持ち生きる気持ちが混じり合い僕らに雪を見させる長く
 
映画の話をしたりされたり暁の指の間に地獄があるね
 
歌はいつでも遅れてやって来ていつもその中に海岸を隠し持つ



堂園の歌は、読者をどこに設定しているのかがポイントの一つになっているのかもしれない。 内的な読者か、外的な読者かに関わらず、表現の意識に関する読者との関係が、歌の世界に反映しているようである。

一般的に、共感と消費の境界は近いようで遠く、遠いようで近い。テクストの共感と消費の難 題は創作者の誰にも付きまとうものであるが、創作の意図と読者への距離に疑問が感じられる歌は詩表現の欠陥を露呈する。

堂園の歌は一見、短歌プロパーの人間から逸脱したところに、読者が設定されているように思 える。しかし、それは表現の詩質が求めているものなのだろう。

私は堂園のテクストを、存在の悲哀を表現しながら、自己愛の世界を新たに拓いた歌として読 んでいる。透明度の強い虚無感が歌を包みこんでいるのも好ましいと思う。しかし、この歌の世界が現代短歌として間違いなくすぐれていると言い切る自信はな い。結局、私が似たような感想ばかり記しているのも、その引っ掛かりがあるからである。

歌の世界を共感されながら消費されないテクストであること。私が望んでいるのはそのような ものだが、堂園の歌の拓く世界が、その点で私の思いを揺さぶることも確かなことである。



14/07/02 up
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