斉藤斎藤作「今だから、宅間守」を読む。

「るしおる」63号(2007年1月25日 書肆山田に斉藤斎藤が発表した連作「今だから、宅間守」は刺激的な作品である。宅間の事件を中心に、「光市母子殺人事件」、「広島小1女児殺人事件」など、不条理で悲惨な事件を背景にして短歌表現による果敢な試みがなされている。

  「あいりは二度殺された」などと言う権利は父にもないなどと言う権利

  「最後ぐらい人間らしく死にたい」と、事実は小説よりもベタなり

  殺される自由はあると思いたい こころのようにほたる降る夜

この連作には二つの大きな特徴がある。その一つは、事件の当事者の発言、著書、供述調書などが詞書として使われていること。(引用した歌の詞書はすべて省略している。)そして、二つ目は表現主体の立ち位置を固定することなく、「私」と「他者」を自在に往還していることである。この連作については、「未来」(2007年3月号)の時評で、黒瀬珂瀾が「事件を超えたシステムと対峙」した作品として高く評価している。

しかし、そのような黒瀬の評価とは別に私がこの連作に不満を持つのは、表現という問題性の内部で、宅間と共に被害者の「死」を生きることがなされていないからである。いや、宅間の内部に向けて被害者の「死」を生きることがなされていないといった方がいいのかもしれない。私にはそれが表現に課される最も重要な問題であると思われる。人間存在の不条理を内蔵した「場」から、被害者の「死」を宅間において生きるという不可能性に向かって苦しむこと。被害者の不条理な「死」は、宅間の刑死をもって置き換えることなど何もできはしない。また、それは幸運にも不条理な「死」を被らなかった者の「生」(私たち)をも質している。そのような人間存在の本質そのものに表現の発露の原点を見出さずして、社会のシステムに対峙することにどれほどの意味があるのだろうか。

この連作で私が最も印象深かったのは、宅間と獄中結婚をした女性の言葉である。この女性は宅間という存在と共に被害者の「死」をも生きることを自らに課した人ではないのか。私は宅間の刑死後に負うこの女性の苦しみに創作の原点を見る。私のこのような考えが古くさい文学観だと言われれば、その批判は甘んじて受けるつもりである。

ただ、誤解のないように、最後に一つだけ付け加えておきたい。この連作は作者の厳しい倫理観に基づいて創作されている。その倫理観とは、事件の本質に真摯に迫り、アクチュアルな問題の核心部分を表出しようとした努力の結果からもたらされたものである。


07/08/20 up
back