「短歌」1月号、新春討論「短歌はどこへ行くのか」を読む。

(「短歌」平成20年1月号/2007年12月:角川学芸出版/980円)

角川「短歌」1月号の新春討論「短歌はどこへ行くのか」を読んで考えさせられた。
この討論は現在歌壇で活躍中の30代の歌人、吉川宏志、大松達知、黒瀬珂瀾、小川真理子の4人によって行われたものである。この討論の資料は、4人の討論者が「これからの短歌の主流になりそうな歌」をそれぞれ5首選出したものである。

しかし、この討論を読む限り、選出された作品に対するそれぞれの歌の好みと解釈は語られているが、「主流」になるべき説得力のある理由が、歌に則して論じられているとは思えない。

また、「短歌の主流」になることと、短歌の作品的な価値が混同されていることも気になる点である。言うまでもなく、短歌の作品的な価値は、「主流」になるかどうかが問題なのではない。むしろ、すぐれた作品が、すぐれているが故に孤立し、傍流にならざるを得ない例は多い。

しかし、私がこの討論で考えさせられたのは、そのような点ではなかった。それは、従来の短歌の価値観を代表する吉川、大松とポスト・ニューウェーブ短歌にシンパシーを感じている黒瀬の噛み合わない討論の不毛さである。

黒瀬は従来の短歌の価値を充分に認めながら、ポスト・ニューウェーブ短歌が内在している現在性と、その意味を論じている。しかし、吉川、大松は、ポスト・ニューウェーブ短歌を初めから否定した位置に立ち、自己を絶対的な立場に置いて彼らの歌を裁断しようとする。また、吉川、大松には、短歌のあるべき姿と、その短歌を享受する理想の読者が動かし難く存在しているようである。

そこで、私のこの討論を読んだ第一印象だが、黒瀬の発言に対して、吉川、大松の発言は、自分の為にしようとしている印象がどうしても拭えない。それは、彼らが意図したものではないとは思うが、自己の短歌に対する信念がそのような態度となって現れたのだろう。

しかし、少なくとも吉川はこの討論の司会者という立場であり、黒瀬の発言に対して問題の本質を掬い取って、生産的な議論に結び付けるべき義務があるのではないだろうか。ところが、吉川の態度は、黒瀬の発言に対する反論に終始している。これでは、短歌の二極化に問題点があると指摘しておきながら、その二極化の溝はますます深まるばかりである。そこに、吉川が日頃主張している「対話」の可能性など産まれるわけがないだろう。

私はポスト・ニューウェーブ短歌に必ずしもシンパシーを感じているわけではない。ただ、私が否定した歌が現在の若い歌人に支持されている以上、私には気付くことのできない価値や意味がその短歌に内包されているのではないか、という「不安」をどこかに確保しておく必要があると思っている。そして、その「不安」を解消すべく、機会を捉えてはその歌を再読するのである。

すぐれた要素を内包した作品すべてが自分ひとりの力で読み解けるわけではない。そのような認識をどこかに確保しておかないと、自分が理解できない作品はダメな作品であるというドグマに陥る。

この討論の結びの言葉で吉川が言っているように、「やはりお互いに読み合うところにしか短歌の生き残る道はない」だろう。しかし、その際、前提や偏見、先入観をどこまで払拭して作品そのものを読むことができるのか、個々の歌人に突き付けられている課題は重い。

「対話の」可能性が可能性としての真の意味を持ち得るためには、「他者」の声に真摯に耳を傾けなければならないだろう。たとえ相手が自分に対する批判的な言葉を発したとしてもその言葉の真意を掴み、自分の短歌観(文学観)に照らし合わせた上で対話を続けなければ、一方通行の言葉が行き交うだけである。

私がこの討論を不愉快に感じたのは、歌壇のヘゲモニーが随所に透けて見えたことであった。例えば、次の大松の言葉には、そのヘゲモニーが内包されている。

大松 いつか大辻隆弘さんが「短歌って一種の習い事なんだ」と言ってました。習い事はある程度習うとその世界がわかるけど、習わないとわからないみたいなところがあるじゃないですか。黒瀬さんの挙げた人はそれなりの歌人ではあるけれど、ルールを軽視しているような感じがするんだけどなあ。

私には短歌の作品を論じる場で「それなりの歌人」などという言葉を含む、このような発言が発せられ、その後何ごともなく討論が続けられたことが信じられない。

ヘゲモニーが透けて見えるような討論に、「対話」の可能性は存在し得ないだろう。歌壇を代表する若手の討論会が、不毛にしか感じられなかったのは幾重にも残念でならない。

今回は前回に引き続いて短歌の批評について書く予定であったが、それについては別の機会に譲る。


07/12/31 up

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