「現代詩手帖」の短歌・俳句時評を
読んで考えたこと。


「現代詩手帖」に連載されている短歌と俳句の時評が刺激的である。現在この時評を担当しているのは黒瀬珂瀾と柳克弘である。どちらも若い世代に属する気鋭の歌人であり俳人である。彼らの時評が刺激的なのはエコールにこだわることのない自由なスタンスから、自己の文学観に裏打ちされた明確な批評を行うことにある。対象に即した批評行為は先入観とは無縁なところで行われる。批評対象と批評行為が創造のトポスにおける闘争エチカを形成しているのである。

彼らの批評の健全さが担保されているのは、その批評が他者に向けてのものであると同時に自己に向けられたものであるところにある。また、現代詩の総合誌として他の追随を許さないこの雑誌に、短歌と俳句の時評が掲載されていること自体にも、時評の質を担保している側面があるだろう。

言うまでもなく、現代詩を視野のどこかに入れた上でなければこの雑誌に批評を書くことはできない。それは「現代詩」の問題として短歌や俳句を批評するということを意味しているのである。そのためここで取り上げられる対象は、ことさら「現代詩」を意識していないものであっても、「詩」の問題として読まれることを覚悟しなければならない。そこに短歌や俳句の専門誌に書くのとは別の緊張感が強いられる。

ここでは柳克弘の時評の中から5月号の「切れと難解」を取り上げてみたい。読んだときにいろいろと考えさせられたからである。

この時評は長谷川櫂の「切れ」に対する認識を質したものである。
長谷川は芭蕉の「古池」の句の「や」によってもたらされる「切れ」の効果を、「心の中の世界を顕在化させる方法だ」として、「この句は蛙の飛び込む音を聞いて心の中に幻の古池を浮かべたという意味」になると主張する。それに対して柳は長谷川が「虚構のイメージを強調した点」を評価しつつも、句や「切れ」を散文レベルから論じている点に苦言を呈する。

また、長谷川櫂が羊羹を切ることに「切れ」を喩えていることを批判する。すなわち、「羊羹を切ることによって羊羹にすき間=余白が生まれ、この余白によって羊羹が食べやすくなった」という見解が、逆ではないかというのである。
その点を柳は次のように説明している。

「古池に」とすれば、論理的に納得できるところ、「古池や」とあえて断ち切ることで、構文の中に意味の空白が生じる。すると、同時に、真空がまわりの空気をひきこむように、その空白を埋めようとする意識が作用しはじめる。読み手に難解さを感じさせることによって、句を読む作業を重層化させ、主体的な読みを促すものが切れなのだ。 
                                 「現代手帖」5月号「句々星屑4」


柳によると「『切れ』による難解さは、ロシアフォルマリズムの『異化』という考え方、すなわち読み手の理解をできうるかぎり遅らせるという働きと通底している。」とされる。そして俳句が短いゆえに必要とする「切れ」は、端的に複雑さを生み出す装置として重要であるというのである。

長谷川櫂の「切れ」の説明よりも、少なくとも柳の「切れ」の説明の方が私には説得力がある。ただし、疑問がないわけではない。柳は「切れ」についての具体的な説明を飯田蛇笏の句によって行うのであるが、それがすっきりと納得できないのである。

流燈やひとつにはかにさかのぼる     飯田蛇笏

たとえばこの句の上五を「流燈の」などと言い替え、切れを弱くすれば、意味は取り出しやすくなるが、絶望的に厚みを欠いてしまう。「流燈や」と切れ字を用いた強い切れが意味の流れを立つママことで、読み手は「さかのぼったものは何だったのか」と一瞬戸惑い、「それは流燈である。」という答えまで、遠まわりを強いられる。そのことでぐっとクローズアップされる流燈の存在感が、「ひとつ」という言葉に込められたかけがえのなさを裏付けている。読み手をつまずかせる「や」の切れが、この句の命なのだ。


「切れ」による難解さがフォルマリズムの『異化』と通底しているのならば、「切れ」を核とした詩的重層性は、一句の総体的な言語効果として発揮されるものである。よって、「や」が「の」よりも強い切れの効果があるという「切れ」自体の強度にポエジーの問題を還元することはできない。すなわちこの句では、総体的な言語作用の質的な問題として切れ字の「や」が必然的に選び取られたのであり、別の言語環境では「の」の方がより「切れ」の効果が発揮されることが想定される。

高野素十に「甘草の芽のとびとびのひとならび」(原句「とびとび」の後の二字は踊り字)という代表句がある。この句の場合「甘草や」では、句に厚みがなくなってしまう。「の」であるからこそ、句に切れが生じ、豊かなポエジーが立ち上がるのである。

柳は「平成俳句が平明化していることと、切れの意識の弱体化とは、無関係ではない。作り手が思い切った切れを行使できないという状況は、現代の俳句批評が、難解さに立ち向かっていない証ではないだろうか。」とこの時評を締めくくっている。

その主張は確かに聞くべき価値のあるものである。
しかし、柳が「や」を強い切れの効果を生むアイテムのように考えているのならば、それはフォルマリズムともポエジーとも関係がない。「切れ」の問題は修辞的なレベルから「構造」の問題に向かうのではなく、「構造」の問題から「切れ」自身に向かうべき問題である。



08/10/20 up
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