[sai]vol.2を読む。


同人誌[sai]の第2号が刊行された。創刊号の刊行から3年目のことである。

同人誌の存在価値は自由さと挑発性にある。結果がどうであれ、この2つの要素を抜きにしては同人誌の存在意義は稀薄になる。

[sai]という同人誌のメンバーは現在〈旬〉の若い歌人が中心であり、編集発行人は近現代の文学研究者であって歌人ではない。そのようなメンバーの構成自体、雑誌の自由さと挑発性を内在するには打って付けである。

言うまでもないが、注目されている歌人を何人か集めればすぐれた同人誌ができるわけではない。また、たとえすぐれた短歌作品が散見される雑誌であろうと、歯の浮くような仲間褒めが目に付くようでは同人誌としての存在意義が疑われる。同人誌は継続的に刊行されることが目的ではなく、自由さと挑発性に基づいた緊張感がどのような形で担保し続けられるかが問われている。これは自戒をこめて言うのであるが、緊張感を内在することのできなくなった同人誌はとっとと廃刊すべきである。

さて、[sai]第2号の特集1は「からだからでるもの」である。テーマとしては一見漠然としているが、個性的な歌人が揃っているだけに意欲的な連作を発表している。「巻頭競詠」から引用する。

 〈選ばれた者の証〉が体なら土足で出てゆきたいんだ、僕を 

 穴というすべての穴から毛を抜いて身体に眠る黒を滅した 

 と 言う自分 死んでしまえ。と 言って死ね。 と 言えない自分 死んでしまえ
 よ。 

 (全身をドロドロにしてちんくしゃなわたしと溺死する明日なら) 

  玲はる名「雪のサイレン」 


 口を出る言葉あるいは赤い舌すべては胸に取り込むために 

 青い闇の胃袋のなか身動きがとれない 夏のブランコを漕ぐ 

 あの人のやさしい体から出てるどこにも流れ着かない林檎 

  盛田志保子「ゆめおち」 


 ほほゑんですますわれより鱗ある魚のはうが好かれるだらう 

 かうやつて腐るのは厭 桃の皮一枚ほどの笑顔をゆがめ 

 きみのこと思ひ出すたびわれのうへになめくぢの這ひあとのごときは 

  岸野亜紗子「おがくづ」 


「雪のサイレン」は、心と体、生と性(差)、私と他者、国家(民族)と社会などに浴びせかける嫌悪の言葉が、自己に内在するリビドーから挑発的な批評性を伴い、歪に吐露された問題作である。存在のカオスが弾けたかのように、赤裸々に生身の体から嘔吐される言葉は、グロテスクなエロスとタナトスを帯び、「生」に向けての怒りと寂寥を内包する。作品の成否以前に、実験的な表現のリスクを引き受けた生々しい精神の震えが痛々しいほどに透けて見える怪作である。

「ゆめおち」は、タイトルが暗示しているモチーフの幅を旨く生かしている連作である。本来「ゆめおち」という言葉が内在する、創作に伴うネガティブなイメージを逆転させ、明るい孤独感を伴う作品が印象的である。

「おがくづ」には、孤独、虚無、精神性、身体性、エロス、哀感を帯びた歌が並んでいる。作品には自己の存在感への屈折や、やわらかい嫌悪がかいま見え、歌の魅力を発散している。

以下、その他の同人の作品を1首引用し、特集に即した連作への感想を述べてみたい。

   走つてゐる 

 いつか聞きぬ 一度悲しみ始めたらもう泳げないうをの話を 

  石川美南「もる」


   ―めだま― 

 できごとがつぎつぎとあり
 あたらしいめだま
 つぎつぎドアーをあけて 

  今橋愛「からだからでるもの」


 身体から出るべきものが出きらないので齟齬として其処此処に痛み 

  生沼義朗「クラクション」


 吾ら《子》は親の放ちし粘液でありしが未だに上澄みしか吐けぬ 

  黒瀬珂瀾「デモの子供たち」

                     

 抜け出でし褥のなかに蒼白の湿原ありて水鳥ねむる 

  高島裕「蒼き誤謬」


石川美南は特集を意識した実験的な連作を試みているが、この連作に限って言えば石川の良質の詩質ポエジーが発揮されているとは言い難い。特集への過剰な意識が良質な詩質ポエジーを相殺しているのかもしれない。ただし、引用歌は秀歌である。

今橋愛はどのようなテーマでも自己の作歌のフィールドで柔軟に対応できる詩質ポエジーを持っている。それは同誌に掲載されている今橋の詩についても言えることである。「からだからでるもの」は、今橋ワールドを堪能できる秀作。

生沼義朗の「クラクション」には、制作当時の生沼の置かれている状況(精神性)が反映しているのだろうか。本来の創作力がテーマに基づいて発揮されていない作品が含まれている。その点からか、連作としての作品世界の亀裂が免れがたい。

黒瀬珂瀾「デモの子供たち」は、特集のモチーフを生かしながら、社会への問題意識を自己存在の内省へと融合し、社会と自己の双方向への批評性を帯びた連作を試行している。

高島裕は、自己の確固とした短歌観に引き付けて創作する歌人である。「蒼き誤謬」も基本的にはそのような高島の態度が貫かれている秀作である。しかし、一連には「十八歳。挿入はしなかった。」という詞書きを持つ、「夏の日の愛撫のさなかこつそりと鏡に向きて舌を出したり」という歌が含まれており、高島の意外な一面を見たような思いに駆られた。

*   *   *


特集の2は[sai]歌合である。「歌合」は作品と批評が融合した真剣勝負であり、「歌合」における勝負の行方が生産的な解釈の多様性に基づく豊穣さをもたらしてゆくものである。

[sai]歌合は個性的なメンバーの魅力もさることながら、判者の東郷雄二の的確な判定と解説がすばらしい。歌人必読の「歌合」である。

また、特集1に基づく高島裕の評論は、自己の短歌観とモチーフをうまく融合し昇華した秀作評論であり、黒瀬珂瀾の評論「全円が影となるとき―春日井建におけるHIVのイメージ―(1)」は、春日井建の新しい側面を開く今後の展開が楽しみな力作である。

気の早いことに今から[sai]第3号が楽しみになってきた。
 

09/02/02 up
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