中島裕介歌集『Starving Stargazer』を
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(2008年11月:ながらみ書房/2100円)

中島裕介歌集『Starving Stargazer』は、第一に、様式、あるいは方法そのものを「詩」にすることを試行した歌集である。そのための様々な仕掛けがこの歌集には施されているが、それが一番顕著なのが英語に日本語のルビを付けた次のような短歌であろう。


 ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者

 Staring at the star Bethlehem, she's a Starving Stargazer !


このテクストは異質な言葉と意味の二物衝撃による「詩」の発生を狙った、中島の言葉を借りれば多声のコンポジションということになる。

ここに例示したテクストはこの歌集の冒頭の歌であるが、英語と日本語には直接的な関係性は稀薄である。それにより、英語の部分を日本語に直訳して日本語のルビと比較して鑑賞しようとしてもテクストの「読み」は行きとどかない。いや、無意味であると言った方がいいかもしれない。英語のテクストは英語のまま受け容れるべきである。

また、英語のテクストを主文としてあくまでも日本語のテクストはそのルビであると提示されている以上、英語のテクストを直訳することは、作者の意図に反する。

中島が試みる多声のコンポジションは、英語のテクストの場合、主に頭韻を活かし言葉が次の言葉を呼び起こすように繋げられ、呼び起こされる言葉によって言葉の重なりや、言葉の拡散が表出されるように作られている。また、日本語のルビの方は英語のテクストと連想の糸で繋がっているようで、実際には二つのテクストの間で立ち上がる重層的なイメージが意味の消失点を表出する。ここで言う意味の消失点とは、多声のコンポジションによる意味の決定不可能性がもたらすものであり、この消失点は言葉に向けて直接作用する。よって、このテクストで問題にされるのは多声のコンポジションによる言葉そのものへの意味の付与である。つまり、このテクストは言葉による意味の表象ではなく、言葉そのものに意味を付与することを試行しているということだ。

もちろん、このテクストにはイエス生誕にまつわる物語が背景にある。しかし、そのような物語自体に意味があるわけではない。何かの寓意として受容することは可能であるが、確定的な一つの答えを導くことは不可能である。

また中島が試みる多声のコンポジションには、英語のテクストだけではなくルビとしての日本語にも、同音異義語を活かしながら言葉が言葉を呼び起こすように繋げられている歌がある。


 共生のための矯正の、嬌声のクレゾールに包まれている

 The more I dose the dog with a drug,the less my drive to dive is...
 Really ?


このテクストも先のテクストと同様に、多声のコンポジションによる意味の消失点から立ち上がる言葉そのものへの意味の付与に重点が置かれている。

中島はこのような試行について、短歌に「私」以外の「他者」を導き入れようと試みた結果であると「あとがき」に記している。また、「今後も新たな様式を考えていくつもりだが、形が変わっても、〈私性に拠らない短歌〉〈他者と共にある短歌を〉私は求め続けるだろう。」と、詩型の拡張を目指す。

この歌集がどのような理解と無理解に晒されるのか私には予想できないが、中島があえて困難を引き受けて自己の短歌の世界を開こうとした試行を私は評価したい。


 未知であり続けねばならない僕はシュレーディンガーの猫と叛乱

 Cat is in the case, the fact, is the existence of atomic facts.


この歌は中島が自己の詩的試行を象徴的に詠んだものであるように思われる。予測の不可能性とパラドックスを内包する試行から生まれるテクスト、この歌に詠われているのは、この歌集のテクストそのもののことである。

またこの歌集には中島に影響を与えた詩集が歌に読み込まれている。特に次の歌に詠まれているステファヌ・マラルメの『骰子一擲』は、歌集に与えた影響が大きいと思われる。

 自ら骰子として一擲す 目をイカサマなくらいに開けて


この歌集はタイトルにあるように「星を眺める人」というのがキーワードになっている。テクストの多くに星座になった神話の神々が引用されているのもそのことに関わる。

実はマラルメは星に憑かれた人であり、「星々の象徴主義」が思考の主題として長く継続的に考えられている。菅野昭正によると「晩年のマラルメのなかには、たとえば『骰子一擲』におけるように、星が絶対と重ねあわされる例も認められる。いずれにせよ、星々の象徴主義から引きだされる多層的な意味作用について、マラルメが長い年月をかけて思考を凝らしつづけたことは間違いない。」(『ステファヌ・マラルメ』1985年中央公論社刊)と言うことである。

『骰子一擲』を歌に読み込む中島がその点を意識していなかったとは思えない。歌の中に『骰子一擲』を読み込むことで、この歌集の背景の一端を読者にそれとなく知らせようとしたものであろう。

また、中島はマラルメの表現方法である類質同形性イゾルモルフィスム(類似が類似を呼び言葉を次々に繋ぐ方法)を自己の創作に引きつけて試行している。それは、マラルメの表現方法に忠実であろうとするよりも、自由に解釈することで自己の短歌に活かそうとしたものである。例えば先に引用した多声のコンポジションに見られる、音の類似から言葉を次々に繋げる方法や同音異義語を活かす方法である。

しかし、中島がこの歌集で試行したことはもちろんそのようなことに止まるものではない。次回はもう一つの重要なポイントだと思われる引用の問題、それに付随する戦略的な間テクスト性の問題について言及したい。


09/03/09 up
09/03/10 pm12 改訂
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