村松友次先生を追悼する。


>村松友次先生が3月16日に88歳で逝去された。村松先生は私が大学時代に俳句の手解きを受けた恩師である。

>追悼の意を込めて、村松先生の俳句を、第一句集の『簗守』からご紹介したい。
>村松先生は近世俳諧の研究者であり、高浜虚子、高野素十に師事された客観写生を信念とする俳人である。「紅花(こうか)」という俳号を虚子から受けておられる。

 麦踏みの影のびきては崖に落ち

 庵(いおり)守るたのしさ月とはゝき木と

 泣き声をつらゝに飛ばせ吾子育つ 

 火の山と障子へだてて吾子生る

 子を抱いて八岳(やつ)の稲妻夜々浴びて

第一句集『簗守』より


>村松先生は虚子が小諸の虚子庵から鎌倉に帰った後に、虚子旧庵に留守番として住まわれている。掲出の俳句はその頃の句で、昭和23年から30年に作られたものである。

>1句目は、夕暮れになり日が傾いて麦踏みの影が長く伸び、崖からはみ出し落ちている情景を詠んだ句。この句の秀逸な情景描写には、麦踏みをする農夫(農婦)への作者の情感が重ねられている。

>2句目は、虚子旧庵に住み、軒の月と庭のははき木を愛でることに楽しさを感じている句。かつて虚子も月とははき木を愛でながら俳句を作ったのではないかと想像すると自ずから楽しさが増してくるのである。
>3句目、4句目には、次のようなエピソードが背景にある。

長女が生まれ、虚子先生に命名をお願いした。「梅子 小諸城趾に一本の紅梅を見つけたり。とう子 飛驒の生れ名はとうといほとゝぎす 
浅間 少し世俗と遠いけれど。どれか一つ御選み下さいませ。」とあった。
とう子を選んだ。


>大きな泣き声を上げながら子供が元気に育つことを願う3句目。この世に生を受けた子供を寿ぐ4句目。「火の山」は浅間山のことである。どちらの句も写生の精神が息づいている。

>5句目は、雄大な自然に囲まれた虚子旧庵での子育てを詠んだ句。

>長野県で小学校の教師をされていた村松先生は、昭和30年に伊豆大島の岡田小学校に教諭として赴任される。
>次の句はそのときの句である。

 天草桶(てんぐさおけ)抛りし波に身を抛り

 月光の流るゝ身折り米洗ふ

 冬の浪よりはらはらと鵜となりて

第一句集『簗守』より


>
1句目は、天草取りの海女を写生した句。二度使われている「抛り」という言葉が効果的。波に身を抛る海女の姿に深い情感が秘められている。

>2句目は、月光を浴びながら井戸に溜めた雨水で米を洗う姿を描写した句。「身折り」という言葉に米を洗う様子と孤独感が滲み出ている。

>3句目は、冬の浪を見ているとはらはらと海鵜の姿となって飛んでいったという句。対象を凝視した写生から生まれた秀句だろう。

>昭和33年に大島から都内に住まいを移し、小学校の教師をしながら大学の二部に通われていた頃の作。

 吾子のゐる空より我に雪霏々(ひひ)と

 月に子規忌花に虚子忌やこれよりは

 晩学の蟇鳴く夜をまた無為に

第一句集『簗守』より


>1句目は、大島で生まれ、大島で亡くされた次女のいつ子さんを読まれた句。「雪霏々と」に言葉には尽くせない感情が込められているだろう。

>2句目は、昭和34年4月8日に逝去した虚子を追悼した句。月の頃に亡くなった子規と並べ、桜の花の咲く頃に亡くなった虚子を哀悼している。月と花が俳句にとってことに重要な季語であることが踏まえられた句である。

>3句目は、晩学でありながら無為にすごしてしまった夜が続いたことを内省して詠んだ句。「蟇鳴く夜」が効果的。この「無為」には、学問が思うようにはかどらない焦燥感が含まれているだろう。

>以下には、これ以後の『簗守』の句を取り上げる。

 初明かり貧しき稿の今なりぬ

 冷酒に酔うて親しき古人かな

 言の葉の月の光のごとこぼれ

 こぼれたる露の少女のごと固き

 わが信濃近し夏炉の燃えてゐし

 虚子旧廬月のつらゝの一二本

 一古典一寒林のごときかな

 よからずやおたまじやくしの生涯も

 よゝと稿起こしぬよゝと雪の降る



09/03/23 up
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