『christmas mountain
 わたしたちの路地』を読む、補記。

 (2009年1月:澪標/1260円)


文学研究者の岡真理がスピルバーグの映画『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』を批判的に論じた文章の中に、印象に残るいくつかの言葉があった。岡はリアリティという観点からスピルバーグの映画を論じ、スピルバーグの映画に胚胎する欺瞞と欠落を突いている。

(前略)スピルバーグの描く戦場シーンは、言葉で説明できるもの、炸裂する砲弾、四肢をもぎとられる兵士、舞い上がる粉塵……等々、再現できるものしか再現されてはいない。説明できない出来事、抑圧された記憶は、登場しない。あたかも、そのようなものは存在しないかのように。出来事の現実〈リアリティ〉とは、まさにリアルに再現される〈現実〉からこぼれおちるところにあるのではないか、という問いはスピルバーグには存在しない。彼が迫真のリアリズムでもって戦場を再現できるのは、彼において、そのような問いが存在しないから、ではないだろうか。(中略)
ホロコーストという〈出来事〉の体験が、リアルに再現できるような出来事として再現されてしまっているという事実、まさにリアルに再現するという当の行為によって、あたかも再現されたもののリアルさの距離を測定することができる、参照することができるような出来事としてホロコーストがありうるかのように語ってしまっている(以下略)  
                          (『記憶/物語』2000年2月岩波書店刊)


また、同著における岡の次のような言葉も強く印象に残っている。

絶滅収容所という、人間がただの類に還元され、その崇高さも尊厳もことごとく奪いつくされるという〈出来事〉、そしてそれを生きのびることさえもが暴力でしかないような〈出来事〉が、〈出来事〉の外部にいる者たちによって――まさに私たちが〈出来事〉の記憶に悩まされずに安心して生きられるように――人間の崇高な愛の讃歌として消費されるということ自体が、わたしには、人間が生きながらえるということの暴力性のグロテスクな戯画に思えてならない。そのような物語を欲しているのは私たち、〈出来事〉の外部にいる者たちである。私たちが生きのびるために、絶滅収容所を描きながら、それは絶滅収容所という暴力的な〈出来事〉の記憶を、他者と分有すべく語られているのではない。それは、むしろ、その記憶を積極的に抑圧するための装置なのだ(たとえば「慰安所」というような女性の性と人間の尊厳に対する暴力の極限状況においてさえ、「真実の愛」はあったのだなどという物語を欲することと、それはどこが異なるのか私たちは自問してみるべだろう)。


岡のこのような指摘や問題意識に答えることこそが、詩歌の本来的な役割の一つであるはずである。しかし、短歌の社会詠の多くが言葉で説明できることを巧みに再現することに地道を上げているのを見ると、岡の指摘や問題意識からは遊離したまま短歌は、短歌のための表現へと傾斜している。もちろんそれは他人事ではなく、私自身の問題である。

石原吉郎のような極限状態の体験を基点として詩を書くのではない表現者が、岡の言葉にどのように答えられるのか。それは創作の実践を持って望むしかないものだが、「リアリティ」や「物語」に対する何らの自覚も有しないまま、短歌を地道に作り続けることは、岡の提示した問題からのさらなる遊離をもたらすものでしかない。そして私たちは、表現への懐疑にとらわれながら社会詠の価値をいかなる方法によって担保すべきなのか、大きな問題の前に立たされ続ける。

社会詠がフェイクではない真の姿を提示する表現たり得ることの可能性をどのように担保するのか。これは現在の表現者に課せられた喫緊の難問であり、難問であり続ける。

そして、『christmas mountain わたしたちの路地』は、そのような難問への果敢な実践的試行の一つとして、可能性の一端をかいま見せてくれるものである。

例えば河津聖恵がこの本の後半で、「日常への強制」から石原の言葉を引用し、自己の詩の言葉によって石原の言葉を受けて応答する先には、言葉での説明や、リアルに再現される〈現実〉からはこぼれおちるものを、真にすくい取る言葉を獲得することが志向されているだろう。

その点については次回考えてみたい。



09/06/29 up
09/07/01 pm1 改訂
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