稲作と農村の暮らし
(2006/05/15)

 田植えが終わったばかりの田んぼの広がりの中にいると、気分がせいせいしてきます。稲田は、私たちの祖先が自然とともに育んできた風土の一部であり、農村の暮らしの中心です。

一年の始まりに豊作を祈念する
「一年の計は元旦にあり」といわれるように、春とともに農作業が始まる農家にとって、お正月は新しい年の計画を立てる日であり、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)豊穣と家内安全を祈る大切なお祭りです。元旦にはお鏡餅や柳の枝に小さくちぎった餅を花のように付けた餅花を飾り、お雑煮やお煮しめを食べて昨年の収穫に感謝し、新年の豊作と家内安全を家族そろって祈ります。

 正月二日は、朝暗い内から起きて霜柱を踏みながら田畑をまわり、田畑一枚一枚に鍬を入れて仕事始めとし、新年の豊作を祈ります。これは大阪の河内地方の行事で「鍬始め」と呼ばれ、今でも続けている農家があると聞きます。
  四日には「福あかし」といって味噌味のおみ(雑炊)を食べて福を呼び、七日には春の七草と丸餅を入れて七草粥を炊き、厄よけを願ったのです。

 このように、風土と歴史の中で生まれた風習や行事は土地ごとにさまざまですが、どこの農村でも豊作を願う祈りから新しい年が始まります。


苗半作
 水が温み春のきざしが近づくと、田起こしが始まり苗代の準備が進められます。昔から「苗半作」といって、よい苗ができると秋の豊作は半分保障されたようなものだと言われてきました。

 「苗半作といって苗代まきには特に力を入れた。一生懸命にまいたもみだねが勢揃いして、芽をふく姿これほど美しいもがほかにあろうかと思う。虫がつかぬよう、丈夫な苗をつくろうと、祈るような心で世話をする」(「ふるさとの庶民の歴史」 寝屋川市生活改善クラブ連合会編)と、ある農家女性は書いています。

 この女性は40数年前、新任の生活改良普及員として寝屋川市を担当した20才の私に、「田植えの時には疲れ果て、家族にやっと夕食を食べさせ子どもを寝かせ付けたあと、終い風呂に入ってそこで眠ってしまったことがありますよ」と笑いながら語ってくれた人でした。重労働の日々の中でも、美しいもの、大切なものをしっかりみながら暮らしてきた先輩たちの姿がまぶしいほどです。

 今では、モミダネも薄いトレイに機械でまかれて、大きなビニールハウスの中で育ちます。
 4月の中頃、農園近くのビニールハウスで、田植え直前にまで育った苗代を見せていただきました。湿気をいっぱいに含んだムッとするような空気に包まれて、柔らかい早苗が若緑のジュウタンのようでした。何だか少し甘やかされて育ったようだけれど、やっぱり美しい苗代でした。


田植えの仕事と「田植え休み」
 苗代の管理を怠りなく行いながら、水田の植え付け準備が進められます。
 昔、田植えといえば梅雨時の仕事でしたが、大阪の北部でも今では5月中には終わります。

 その地方によって異なりますが、田植え始めの日には、早植えの田んぼに大きなホウの葉に「洗い米」を包んで供えたり、箕(み)の中に一束の早苗と米や野菜などを入れて供え、豊作を祈願します。

 田植えは、農家にとってもっとも大切な仕事です。年寄りも子どもたちも役割をもって田植えに関わり、省くことのできない手間だったのです。
 手植えをしていた頃、力仕事ではないけれど根気を必要とした苗取りや田植えは、辛抱強い女性たちの力の見せどころで、1日に10a(1反)も田植えをする女性は尊敬の対象でもありました。

 手慣れた様子で苗取りをするおばあちゃん、その苗を運ぶ子どもたち、それぞれの役割で成り立つ田植えは、一人ひとりが大切な家族であることを確認する機会でもあったのでしょう。また同時に、村中の助け合いで成り立つ大仕事でもありました。

 「田植え時には隣近所に負けまいと、必死のがんばり、その中にもほのかな楽しみがあった。それは、一株一株植えて、水面から手がはなれる時の水音である。早く植れば早いほど、何ともいえぬ妙なる音色で、今でもわすれられない。数日にして、うすみどりの早苗が並ぶ。植えおくれた家へは、済んだ人がどっと押しかける。十人以上も並んで植えれば、大きな田でも、またたく間に植え上がる。全部植え付けが終われば、植え付け休みである。
 朝早くから、魚屋さんが大きなたこを持ってくる。手かぎでポンとたたいて『吸いつきよる、まだ生きとるで』と一軒一軒生節と一緒に置いてまわる。お金を払うのは八月三十一日である」(前出「ふるさとの庶民の歴史」より。著者、杉浦エン)とあるように、村中の田植えが終わると田植え休みをしました。

 村役が相談して日を決めて村中にふれがまわります。この日は田に出ず、どこの家でも「生節の押し寿司」と「タコとキュウリの酢の物」をつくり、疲れのたまった体を休めます。早苗がしっかりと土に吸い付くようにとタコを食べたのです。この2つの料理は、淀川両岸地域の夏祭りのご馳走として今もつくり続けられています。

 このように、村中が競争相手であり、お互いさまに助け合う仲間であり、みんなの命と暮らしを守っていく共同体だったのです。今も、稲作地帯の農村ではこの風習はしっかりと生きていますし、米づくりが行われるかぎり続けられていくことでしょう。

 また、こんな忙しい田植えの最中でも、早苗を植えるときの「ちゃぽっ、ちゃぽっ」という水音にさえ喜びを感じ、田植えの遅れた家に一株でもと手伝いに行く、そんな暮らしがうらやましくさえ思えるのはどうしてでしょう。


重労働だった草取り
 田植えが終わっても、水の管理や田の草取り、畦の夏草刈りに追われます。除草剤のなかった昔は、1番、2番、3番目と、3回の草取りは、小さな草取りの車を押して泥田の中を行きつ戻りつし、何里歩いたことかと考えたといいます。

 最後の4番草取りは土用(7月20日頃〜8月8日頃)の最中。一株一株のまわりを手でかき混ぜながら小さな草も泥田につっこみ、田を這い回る大変な作業で、草取りが終わるころには頬もこけ、目は落ちくぼむほどでした。

 農薬の安全性の問題は残りますが、除草剤が農家をこの重労働から解放してくれたのは事実です。

 草取りが終わると田の水を抜く「土用干し」。ほどよく乾いて田土に少し割れ目が入ると水を入れ、穂がよくはらむように最後の追肥(穂肥)を入れて稔りを待ちます。この頃は害虫の発生も多く、また二百十日や二百二十日の台風など、収穫まで心配は絶えませんが、夏祭りやお盆がある8月は、豊作を神仏に祈りつつゆっくりできたときだったのです。「百姓の八月大名」という言葉も残っています。


稲の稔り、収穫の祝い
 秋が近づけば、モミは日に日に膨らんで重みを増し、稲穂は垂れ下がり黄金に色づいていきます。この頃の田の見回りは楽しく、稲刈りの準備もはかどったことでしょう。

 一粒のタネが一株の稲に育つと、秋には約20本の穂が出て一本の穂には約80粒のお米が稔ります。一粒が約6ヵ月間で1600粒にもなるのです。

 乗用のコンバインで一気に刈り取り、モミになって出てくるまでになった現在も、稲刈りは家族総出の仕事です。若者の休みの日をあてにして収穫作業が進められます。お年寄りたちは、機械が刈り残した四隅の稲を手刈りしたり、細々した仕事をこなします。子どもたちもおやつを運ぶなど、お年寄りの手伝いをしながら家族のまわりで過ごします。

 刈り取りが終わっても、モミの乾燥、モミ擦りとまだまだ仕事は忙しく続きますが、役割を終えたコンバインや鎌などの農具はきれいに洗って整備し、赤飯や餅などを供えて労をねぎらいます。稲木や鎌が大きな機械に変わっても、収穫を喜び感謝する農家の心は変わりません。そして、収穫を祝う祭りが村を上げて盛大に行われるのです。


農村は日本人の苗代
 私が、1970年代に担当していた能勢(のせ)町は、大阪府の最北端に位置し京都府・兵庫県と接する農村です。
 山間部のため小さな棚田が多く、この当時、やっとほ場整備が進められていました。ここ能勢町のある農家女性からこんな話を聞きました。

 「私は嫁にきていらい、この田を這い回って石ころを一つひとつ拾い出し、肥料を入れて土を肥やし、真夏の田に入って汗にまみれて草を取り、これだけの米が取れる田にしてきた。この田は私の歴史そのものです。この田の中で何事にもくじけない自分を育ててきたのです……」と。

 「稲作が日本に伝わったのは縄文時代の晩期といわれ、九州から畿内に広がり奈良朝後期から延歴時代(782〜802年)には、陸奥、出羽に及び、全国の水田面積は105万haにのぼっていたと推測されています」(「日本人の主食 お米と文化」 全消連)。
 この時代すでに、現在の水田面積(225.6万ha)の半分近くもの水田が開かれていたのですから驚きます。日本の歴史は、能勢町の一女性のような農業者の苦労と新田開発や治水に命をかけた先人の努力による稲作の発展とともにあったのです。そして、日本人は稲作によって命をつなぎ、文化を育んできたのでしょう。

 「農村は、日本人を育てる苗代だ」と言った方があるそうですが、たしかに数十年前までは、多くの人たちが農村で育ち、やがてふるさとを離れて都市に出て行きました。そして、その人たちが新しい時代の基礎を築いてきたのです。 自分たちの苗代であり、日本文化の大きな支柱である米づくりを大切にしたいものです。