大辻隆弘著『時の基底』を読む、
その2。
(2008年9月:六花書林/2940円)
>『時の基底』は短歌を作ることに志を持っている者にとって必読の書である。今後この書を一度も繙くことなく短歌を作ることは許されないとまで言い切ってもかまわない。
>私がその点を強調するのはこの本に書かれている内容をすべて肯定するからではない。前稿でも指摘したように、この本には自己の短歌観を絶対視するあまり、短歌に対する見方が偏向しているところがある。しかし、その点を考慮してもこの本が必読の書であることは揺るがないだろう。
>既にこの本についてはいくつかの批評が発表されている。その内の一つに9月15日の朝日新聞に掲載された穂村弘の「短歌時評」がある。実に見事な時評で、この本を形成している良質の部分が危惧を抱かせる部分へと繋がることを的確に指摘している。後半部分を引用してみる。
>当時は目にする度に一々むっとしたり喜んだりしていたのだが、改めてみると、時評者が眼前のテーマに託した「今ここ」の思いを真っ直ぐに述べていることに気づく。内容以前に、全ての対象についてこの姿勢が貫かれているところが凄い。現在が必ず過去になることを知る者にとって、それは簡単なことではない。そのとき現在になっている筈の未来につい色目を使って判断を保留したり、云い回しを多義的にしたくなるのだ。
>著者の時評的スタンスは「そのつど湧き起こってくる心情こそが、その瞬間の『真実』であるはずだ」という彼自身の短歌観に関わるものなのだろう。戦争を経験した詩型の歴史に照らすとき、この認識は危うい側面を持つ。だが、大辻時評のスリリングな魅力は、生理的な思い込みともみえるこの信条に確かに根ざしているようだ。
>穂村が引用している大辻の言葉は、『時の基底』所収「失語状態を超えて」の中に書かれているものである。この言葉の意味をもう少しはっきりさせるために、「失語状態を超えて」からこの言葉に関わる部分を抜き出してみたい。
>人間は、たとえそれが捏造されたものであろうと、そのつどそのつど与えられる情報のなかで、一刻一刻こころを震わせながら生きている。そして、そのつどそのつど湧き起こってくる心情こそが、その瞬間の「真実」であるはずだ。短歌とは、そのような心情の誠に直接的に繋がる詩型である。心情の誠に忠実に裏づけられた歌だけが、活き活きとした表情を持つのだと思う。
>「心情の誠だけが、おそらく私に歌を作らせる。」という大辻のこれが信条である。私は前稿でも書いたように大辻が信条とする「心情の誠」を大辻個人の短歌観として尊重する。また大辻が本居宣長や保田與重郎にシンパシーを感じることも自然に受け容れられる。宣長や保田の内包する思想やデモーニッシュな部分は私にとっても魅力的である。もちろん大辻とは受け取り方に差異があるだろうが、その点を否定するつもりはない。
>ただ、大辻の短歌観が免れがたく体制的なヘゲモニー(第26回の注参照)を内在させてしまうことに対する危惧を持つだけである。穂村が「戦争を経験した詩型の歴史に照らすとき、この認識は危うい側面を持つ。」という見解を述べているのもその点を指摘してのことだろう。
>もちろんヘゲモニーに関して言えば誰もが免れがたく、自分だけはそれとは無縁に自由な境地で創作をしていると言うことはできない。イデオロギーにも、ヘゲモニーにも、思想にも自由に短歌を創作しているという主張そのものが、イデオロギーであり、ヘゲモニーであり、思想であり得る。私は何も詭弁を弄しているのではない。それは創作の普遍的なアポリアであって、そのようなアポリアは普段見えないところで私たちを拘束している。短歌であれ、詩であれ、俳句であれ、小説であれ、この創作のアポリアから自由であることはできない。そのような自覚を持とうが持つまいがヘゲモニーは創作の深部にまで作用し、作者の意図に反してでもテクストの方向性を決定する。
>それゆえそれを回避する戦略としてアイデンティティーの脱臼や、思想の脱構築を試みることが求められたはずである。しかし、実際にはそれが有効に作用するかどうかの保証はない。またその運動は継続的に行われない限り、次なるヘゲモニーにやすやすと捉らわれてしまう。
>話が飛躍しすぎたようだ。『時の基底』に話を戻そう。
>言うまでもなく「心情の誠」によって歌を作ることにも免れがたくヘゲモニーは内在している。そして「心情の誠に忠実に裏づけられた歌だけが、活き活きとした表情を持つ」のだと主張することには、紛れもなく一つのイデオロギーが内包される。ただそのような信条が基点になることにより批評の明確化が計られていることも確かである。大辻の批評の魅力は自己の信念と短歌観がぶれないことによってもたらされている。しかし同時に大辻の批評の陥穽もそこにある。
>短歌の本質が「心情の誠」にあると規定したとき、その規定から短歌に関する諸処の問題系は見事に明証化されるだろう。しかしその明証化された内容は大辻の創作を強固なものにするために作用するものであり、自己の絶対化が計られるものである。その際批判され捨象されるものは永久に浮かばれることはない。私は何度も同じ事を繰り返し言っているようだが、大辻の批評の魅力と不愉快さがそこにある限り、この点はいくども強調せざるを得ない。
>大辻が胚胎するデモーニッシュな部分に共感するとき、それは激しい愛をともなった憎しみと共にやって来る。
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>ここからは『時の基底』の内容を中心に言及したい。
>この本にはすぐれた考察がいくつもある。大辻が同世代の最大のライバルと見なしているであろう加藤治郎の歌に対する批評の的確さ。「私は今ここにいて、その時そこにいないのか」で大滝和子の第二歌集『人類のヴァイオリン』を分析し、大滝の歌の特徴として「交換可能性への志向」を見出した「読み」のシャープさ。大滝和子論としてこれほどすぐれたものを私は他に知らない。また、短歌の時代状況を捉える勘の鋭さ。「てにをは」を中心とした歌の細部に基づく「読み」の重要性の提言など数え上げていけば切りがない。
>その一つ一つをここに例示することはできないが、それらの中で私が半ば感心し、半ば疑問に思った時評を一つ取り上げてみたい。
>それは近藤芳美の歌について論じた「未来時評」所収の「森、あるいは近藤芳美の文体」である。
>大辻は昭和四十年代以降の近藤作品の文体が内包する「てにをは」の歪みを指摘した島田修三、小池光、一ノ関忠人に触れながら次のように書いている。
立ち返るネオ・ナチとして伝うるを国に冬ならむ行きし旅よりを
『メタセコイヤの庭』
ひとつ世紀終うとし神なき驕慢の空の爆撃のことば絶つまを
『命運』
>島田や小池や一ノ関は、このような佶屈な文体のなかに「作者のにがい感慨」「作者の希求する平和が実現しない苦渋」、あるいは、近藤芳美の「魂」がこもっているという。しかしながら、率直にいえば、島田や小池の指摘を待つまでもなく、これらの歌の下句は、誰が読んでも解釈不可能だと思われる。どこかで日本語の繋辞の体系を無視している強引な文体であるといってよい。
>私たちはこのような作品をどう評すればいいのか。簡単だと思う。私たちはこれらの歌を正直に「分からない」と言えばいいのだ。いや、言うべきなのだ、と私は思う。
>たとえ、そこに平和や人類への祈りが込められていようが、熱情が込められていようが、その思いを読者に伝えることができなければ短歌は表現として成立し得ない。かつて岡井隆が『黒豹』の歌に対して行ったように、島田や小池は、近藤の作品が短歌として成立しているかどうかを問うているに過ぎない。もし、近藤自身が、このような歌によって、自分の思想を読者に伝達可能だと考えているとしたら、それは、独善的な甘えである、と言われても仕方ない。
>作品に込められた思想を早急に読み取ろうとするあまり、表現の細部の甘さを指摘してこなかった戦後の短歌界。島田・小池の文章を読んで、私は「意味という病」を患い続けてきた戦後短歌の歪みを思った。
>第二芸術論の嵐のなかで、現実社会の中に果敢に切り込んでいった近藤芳美の存在はもちろん重い。しかし、近藤が行おうとした第二芸術論への返答の仕方は、本当に正しかったのか。
>苦渋に満ちた近藤の文体は、戦後短歌が長くそこに迷い込んだ、深い森の象徴でもある。
>長い引用になってしまったがこれだけ引用しなければこの文章の主旨ははっきりとは伝わらない。
>この文章が書かれた当時「未来」の発行人は近藤芳美であった。当然近藤はこの文章を読んでいる。結社誌に発行人の批判を含む時評が載っていることはそれだけでも重い意味がある。私も未来に所属しているのでそれ以上言うことにはいささか躊躇いがあるが、はっきり言うと結社誌に結社の代表の批判が載ることはその雑誌が文学雑誌として健全である証拠である。その背景には未来が複数選者制を敷いていることも作用しているだろう。が、代表である近藤芳美の性格とその性格を体現した結社の性格をはっきりと示してもいる。
>私はそれについて、自分が所属する結社の代表であることを顧慮することなく率直に近藤を批判している大辻を高く評価する。また、そのような批判が載っている文章であるにも関わらず掲載を許可した近藤の姿勢も評価する。
>しかし、大辻の近藤の歌に対する評価には疑問が残る。なぜなら近藤の文体が屈折していることを近藤の歌の必然的な本質と考えない限り、近藤の歌による営為は半ば意味を失うと思うからである。その点私は島田や小池や一ノ関に共感する。どのように難解に見える歌も作者の立場に立ち、作者に即しながら丁寧に読解し鑑賞する努力を続けること。それを放棄しては短歌のような詩型の「読み」が成立しないことは、大辻も日頃言っていることではないか。
>私は大辻が近藤の歌に向かうとき、近藤の歌は「認識」の歌であるという大辻の短歌観(心情の誠)に相反するという前提から、歌に向かう以前の大辻の読みの姿勢に偏見が内包されているようにしか思えない。「分からない」という言葉によって近藤の歌から何が失われるのか思い到らない限り、近藤の歌に対する批評は始まりもしないし終わりもしない。
08/09/22 up
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