玲はる名詩集
「朝が来ると信じているのだね?」を読む。

玲はる名の詩集「朝が来ると信じているのだね?」を読みたいと思う。しかし、その前に前々回に取り上げた谷川俊太郎のインタビューの言葉をもう一度引用したい。それは次の言葉である。

「ネットの問題は『主観的なことばが詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう」「『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。(後略)


谷川はこの後、芭蕉の「古池」の句を例に挙げて、芭蕉の句にはメッセージは何もないこと、意味すらないに等しいことを説明する。私は谷川の言葉を首肯しつつ、詩と自己との関係について次のように敷衍したい。

先天的な自己、即ち表現をする前に確固とした自己があり、その自己による主観的な表現は詩ではないだろう。しかし、詩は表現の内部で自己との遭遇を可能にするものである。言葉の内なるアポステリオリな自己との出逢いを招来するトポスとしての機能を詩は内在する。よって、詩と自己表現が無縁なのではなく、詩による表現により自己との一回性の遭遇が詩の内部、言葉の内部で果たされるのである。言うまでもなくその自己とは常住するものではなく、捉えがたく常に変容するものであるがゆえに、言葉という制約の内部で恒常的な危機に晒されている。

詩表現によって真に自己を捉えることは奇蹟的な行為でもある。誤解を恐れずに言えば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句は、芭蕉の捉え得た真の自己でもあると言えるのではないだろうか。詩歌は自己を説明するものでも、先天的な確固とした自己を表現するものでもない。そんな当たり前のことが、実は当たり前でなくなっていることにもっと自覚的であらねばならないだろう。

玲の詩を読んでいるときに谷川の先の言葉が気になったのだが、それは玲の詩が「『詩は自己表現である』という思い込み」によって作られているからではない。むしろ、玲は詩がどのようなものであらねばならないかを自覚して創作している。つまり、玲がブログに発表した詩は「自分の心情のハケ口」になっているものではないだろう。そのように確信しながら私はこの詩集を読んだ。

では、玲の短歌と詩ではどちらをより評価するのかと問われれば、迷うことなく短歌と答えるだろう。玲の詩は詩になることを欲するナイーブさに包まれている。詩が何かを自覚した上で、詩の理想に向けて言葉を構築しようとする欲求が顕著である。そのため言葉と構成の両面が玲のアナーキーな表現欲を抑え、バランスの取れた詩表現を実現することに向けられている。それは詩を書くことの基本にあるいは忠実な行為であるのかもしれない。しかし、私のように玲の短歌が持つ剥き出しの魅力に晒された者には、短歌と同様の刺激を詩の方にも求めてしまう。いや、私がもっとも強く思うのは、短歌という定型詩の内部には納まらないワイルドな不安定さの魅力が、自由詩の内部には破綻なく納まっている不思議さである。

前稿で引用した「月と雫」という冒頭の詩は、玲が自己の短歌創作を象徴的に表現したマニフェストである。その詩には歌人としての自己のあり方が力強く表現されているが、詩自体の意味よりもむしろ実際に表現された短歌を間接的に補完するという意味合いの方が大きい。私はこの詩を評価することに躊躇はしないが、この詩によって私の創作欲が刺激されることはない。
しかし、次のような詩表現には動かされる。


生まれてから今日の今日まで、ひとりの人間として確固たる自我であることなどありえないのだ。それは、自己を記録している人間ならばわかる。同様に他人も確固たる自我であることはないとぼくは思う。動いて揺れるものが自我なのではないか。(中略)あなたが再びぼくをみるとき、ぼくはすべてを了解するのではないか。それが、ちょっと怖いけれど。 
                                     「愛すべき孤独。」より


3歳でパパと一緒に歌詞を書き始めてから、小学校に入り詩を書き始めてから、中学生になって和歌の存在をしってから、日々の記憶を針で刺し続けて、ぼくの体は針だらけなのだ。針は痛いし、針は重たい。書くことで、ぼくは針をいっぽんいっぽん抜けば、言葉はぼくの苦しみと、哀しみを引き受ける。「それでいいんだね」「それでいいんだね」軽くなってゆく自らのこころと体に問いながら。                           「針人間」より


古びているからかなしいのではない。時計の針がみえているものとみえていないものとの間を繋ぐ空間を示している。特定のさみしさとかなしみをぼくにあたえて。                                「時計針」より


詩を書き続けるために、自らが書いた詩の言葉が本物であるかについて、ぼくには精査する義務があった。詩はぼくが認める唯一の肉体であるからだ。                                      「An」より


ぼくから癒えてゆくものをどのような名詞で支えればよいのであろうか。永久に遠くにあり、毎夜、ぼくのてのひらで包み込めてしまえそうな星の光を。                                        「切り傷」より


逃げる道があれば既に成しただろう
死さえも生きることをぼくに求める
なにひとつ教わらずに生まれた僕が
こんなにも壮絶に光を求めるなんて
                  「光」より



ここに引用した詩句は詩の内部の言葉としての存在感を示しながら、同時に玲の特異な短歌がどのような背景から生まれて来たのかを暗示している。その二つの要素が融合し、詩の表現として昇華しているのがこれらの言葉である。私はそのように理解しながら、いつの間にか詩を生きようとする玲の傷付きやすい心に触れている。

傷付きやすい心を包む言葉は、一見自分を突き放したようにも見えるものだ。しかし、その言葉に込められた感情は、無防備なまでにあまりにも意識的である。これらの言葉は確固とした自己から発せられた言葉ではなく、詩の内部に自己を求めている言葉であるだろう。

少しナイーブ過ぎるようにも思われるが次に引用する言葉も目を引いた。


愛さないで欲しい。
ぼくは理解されることが一番こわいのだから。
           「絹糸」より


きみの眠りに
差し伸べられているてのひらを
やさしい夜のひかりにかえて
                    「やさしい夜」より

そらのいろは塗り替えられてしまって
わたしはほんとうのそらをしらない
中略)
そらがもし
わたしの胸をつよく締めつけたのならば
それがわたしのそらだ
                           「そら」より



なおここには引用していないが、「積み木」は自己との距離の取り方が他の詩とは異なっている。また、「赤い虫」は、谷村はるかの短歌に刺激を受けて作られたものかもしれない。最後の詩句「バックライトのなかで一生を終える虫、/一匹。」がいい。

「のすたるじっくびゅうとれいん>>>>>のっ>>>>>>て」(「ぼくのたび」より)どこまでも詩の旅を続けて下さい。詩の中であなたが「あなた」に出逢う日に向けて……。




09/12/14 up
back