瀬戸夏子第一歌集
『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読む。

瀬戸夏子の歌を初めて読んだのは同人誌「町」の創刊号ではなかったかと思う。そのときの印象は極めて鮮やかで、この未知の歌人の言葉に対する感覚と言語表現の造形力は、間違いなく新しい才能の登場を予感するものであった。むしろ、嫉妬の目を向けながら瀬戸夏子という表現者に畏怖を感じた。

また、同時に現代詩ではなく短歌の世界で勝負することを選択した真意を量りかねてもいた。瀬戸が短歌としてこのようなテクストを提示しても、それを短歌として受け容れる余地が歌壇には存在していないと思われたからである。そうではあっても、黙殺覚悟で自己の短歌世界を追求するのならば、何も力にはならないが、私は瀬戸というアナーキーな歌人の営為を注視しなければならないと思ったのである。

あれから何年後であろうか。昨年の七月に瀬戸夏子の第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』が上梓された。この歌集は私家版で多くの歌人が未見だと思うが、それはまた、瀬戸の意志が反映した出版のあり方でもあろう。私も永井祐の歌集の批評会で瀬戸に会わなければ、未見のままで終わっていたかもしれない。

だが、多くの歌人が読むことで、瀬戸への評価がすぐに定まるものでも、顕彰への動きが生まれるものでもないだろう。下手をすれば、はじめから批評の意志を放棄したドグマに曝されないとも限らない。自分の理解が届かない歌や、短歌観からずれる歌に対して「自分勝手な表現」と決めつけることほど傲慢なことはないが、歌壇における批評(?)の場では、しばしばそのような言葉がまかり通っている。これは、身内や自分の短歌観に近い歌は、それほどの出来ではなくとも褒めるのと表裏一体である。

瀬戸の歌集がこれまで歌壇で話題になっていないのは、歌集の流通の問題ではなく批評の意志の問題である。瀬戸の歌が確かに短歌にとって必要な歌であるのならば、批評の意志を歌壇に示さなければならない。それは、瀬戸の歌の読者の役目でもある。

私は歌集を読むときにテクストにじかに向き合うため、それ以外の情報になるべく触れないようにしている。瀬戸の歌集も同人評の栞文には目を通さないで、思うままに言葉との出逢いを楽しんだ。ときどき突っ込みを入れたくなるような歌もあり、本書の意図とは関係なく一人面白がりもした。

本歌集にはプレ・テクストから引用された言葉が数多く散りばめられている。しかし、その引用の仕方は一様ではなく、また、屈折もしており一筋縄ではいかない。引用は短歌ばかりではない。例えば次の4首など、漢詩の訳、映画や本のタイトルに手を加えながら使用している。ただし、4首目は、デュラスの小説のタイトルがそのまま使われているものである。

この世から電話を切るべく心から花に砂糖のたとえもあるさ 「愛国婦人会」
信長のゆうれいのみどりのまつげと言うべきのティファニーを射て
手紙魔まみ(やってこないわ)(真夜中の)冬が来たりて洋服を脱ぐ
「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」
「これで、おしまい。夏の夜の10時半。北の愛人。ヒロシマ、私の恋人。」


また、引用したテクストを歌集中に示している場合と、そうでない場合があり、読者の読書体験が本歌集を鏡として浮かび上がってくる。使用している語彙にも特徴があり、先に引用した2首目の歌の「みどり」など、本歌集のキーワードの一つである。
とても興味深い言葉ので、私の気がついたものを抜き出してみたい。

「クリームソーダには青色と緑色と赤色があって」「気のいいアヒルが全身を斜めに緑色に吊りさげる」(以上「すべてが可能なわたしの家で」より)、「緑色にふちどられた境遇でも」(「イッツ・ア・スモール・ワールド」より)、「鞄にETのよだれのような緑色の液体で Merry Christmas と書かれてしまう」「ボタンにひきつれた緑色がうつり」「夜空の底が割れてひずんだみどりの音楽を撒く」(以上「日本男児」より)、「気高い千葉のみどり色」、「新聞は器用なみどり」(以上「クイズ&クエスチョン」より)、「なくしたリモコンで…くわしいすずしい緑」(「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと、より)、「みどりの焼肉のタレ」「鍵はみどり鍵穴はみどり」(以上「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」より)、「ながれてく兄弟の紐みどりから」(「血も涙もありません」より)、「真緑にゆれるリキッドソープボトルは」(「The Anatomy of, of Denny's Denny's」より)、「ほうれん草より緑色だ。」(「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」より)


瀬戸が「みどり」もしくは、「緑色」を使用するのに、何か決まりのようなものがあるのかどうかは分からない。ただ、オブセッションのようなものは感じられない。親近感でもない。では何だろうか。「みどり」という言葉に触発されて想像力が飛翔しているのは理解される。

以前本連載で佐藤弓生の第三歌集『薄い街』を取り上げたときに、「緑」に注目したことがある。詩人の左川ちかが「緑」という色にオブセッションを抱いていたことに対し、佐藤は「緑」という言葉の分析を通して、左川を自己に内在化しているように思われたのである。

瀬戸の「緑」に対するこだわりはもちろん佐藤とは違う。塚本邦雄の『綠色硏究』の影響は思い浮かぶが、そこから先に何が瀬戸を捉えているのか見えてはこない。これが瀬戸の「緑色研究」だと言ってしまえば、話は簡単なのだが……。
『綠色硏究』から一首引用しておく。

五月來る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり


瀬戸の歌のキーワードは、「緑」以外にも「太陽」「青空」「夕暮れ」「地獄」「夢」「みずうみ」「宝石」「桃色」「光り」「吊る」「生」「死」「天使」など、数多く指摘できるが、塚本が多く使っている語彙が目に付く。これは瀬戸の塚本への敬愛と塚本語彙からのインスパイアーに関係しているのだろう。

瀬戸の連作「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」は、穂村の歌集からタイトルをそのまま拝借しているのだが、内容は穂村の歌と塚本の「水銀伝説」(ランボーとヴェルレーヌの交互の独白と交信に、第三の人物であるリュシアン・レティノワの声を交えた連作)のモチーフを解体して瀬戸の世界に再構築している。また、この連作には、「水銀伝説」だけではなく、『日本人靈歌』や、『綠色硏究』を踏まえた歌も登場する。

日本を脱出したい?処女膜を大事にしたい?きみがわたしの王子様だ
鍵はみどり鍵穴はみどりミッフィーをひらく動詞を折り紙にして


さらに、山中智恵子や寺山修司の歌も解体され再構築されている。

ここよりさき帽子は海にうまれると海を知らない少女の両手
うつしみに何の矜恃ぞ降り立った天使があなたの舌を噛むまで


また、バッハの教会カンタータ「主よ、深き淵よりわれ汝を呼ぶ」を踏まえた歌も面白い。

「まみより」は心の底で書いている。まみ・フロム・愛の、深い深い淵より。


しかし、この連作の歌で思わず頰笑んだのは次の歌である。

右へ行く左へ行くといいながら『タイタニック』の氷の中身


この歌の前後の歌が、ランボーとヴェルレーヌを詠っているのに、なぜここに『タイタニック』が登場するのか。それは、ランボーとヴェルレーヌの破滅的な愛と魂の交感を描いた映画「太陽と月に背いて」の主役のランボーをディカプリオが演じていたからだろう。そうすると、この歌の結句の「氷の中身」はとても示唆的である。

その他、雪舟えまや笹井宏之のような若い歌人の歌を含む数多くの引用があり、一つ一つを確かめてゆくのも興味深い。

塚本の影響ということに話題を戻すと、瀬戸の「光り」という言葉の使い方は塚本に習ったものであり、「みずうみ」という言葉も塚本の歌からインスパアーされたところがあると思われる。

みずうみに出口入り口、心臓はみえない目だからありがとう未来
「The Anatomy of, of Denny's in Denny's」
みずうみを鞄にしまうあの世の疲れたみずうみ繰りかえすまばたき
低くして眠るあつ足の方はるか西域の彷徨さまよふみづうみ
連作「水銀伝説」
アフリカにて見れば母國の地圖ゆがみどのみづうみの底に寺院てらある


瀬戸の特徴的なテクストは、詩の中に短歌をバラバラにはめ込んでゆく方法だが、言葉の断片がパーツとして、あるいは、肉片のような生々しい存在感をかいま見せているものがある。読者は瀬戸の言葉の世界からそのパーツを拾い上げて組み立ててゆく。しかし、その組み上がった短歌はキメラのような姿をしたものである。

詩に短歌をはめ込む方法自体、短歌としての可能性と詩としての可能性を融合したキメラのようなもので、これを詩壇ではなく歌壇で発表するところに、挑発性と困難さを引き受ける表現者としての覚悟を感じる。

私は「すべてが可能なわたしの家で」を長編詩として読みながら、次の「マイ・フェイバリット・ヘイトスピーチ」を、それへの反歌のように読んだりもして楽しんだ。このような読みが許される共通した言葉の質感が瀬戸のテクストにはある。詩から短歌、短歌から詩という交感に、言葉と表現に通底する質感が融合し、瀬戸ワールドとも言うべき一つの世界が形成されているのである。

本歌集の最終のテクスト、「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」は短篇小説風散文詩だが、テクストが完結した後に、空白を置いて斉藤斎藤、雪舟えま、笹井宏之の歌が並べられている。それは、彼らの歌にインスパイアーされて、このテクストが書かれたことを意味していると受け取れるが、それ以外に、彼らの歌が反歌のように機能していると見ることもできる。

「すべてが可能なわたしの家で」の前半部分(P6~11)から感心した表現をいくつか引用してみたい。

「すべてが可能なわたしたちの家でこれが標準のサイズ/二重の裏切り、他になにもない朝の音楽に」「ユニークに青空を折りたたむ光りの指/光りの湯を捨てる」「空はまっすぐな千本の針を飼う」「わたしたちの知らない旗が春の尖端で裸になっている/つづけようそれからの出来事も、重力はかばんの中心地」「ほどかれた指紋が、海の支店から上手に逆上がりする」「死んでしまったうさぎもちょっとはキャベツをきざむべき」「落下する映画のぶどう、頭の良いナイフ」「青空はわけあたえられたばかりの真新しくあたたかな舟。」「朝露できらきらするくもの巣状にひろがる東京都をわたしたちの指がひょいっとつまむ、」「成長するのっぺらぼうとわたしたちは沈黙している。」「元年に洗われて、使いなれたクリップで銀色のゾウをとめる」「疑問符に性欲をたくさん詰めこんでいても、わたしたちが失敗したときに/もとめる絵は……、シャープペンシル」


瀬戸のテクストは感性の豊かな譬喩、奇想天外な譬喩を内在しながら言葉から言葉へと想像力が駈けめぐる。時には残酷であり、また、時には愛に充たされて生と死を往還する。その自在さは人間存在に付帯する虚無を、言葉によって暴力的に撃ち抜くようでもある。

瀬戸がディビッド・リンチやタランティーノの映画が好きなのかどうかは分からないが、特にリンチの世界にどこか通じてゆくものがあるように思えた。詩人ではねじめ正一の暴力的な初期詩篇や、町田康のいくつかの詩篇も思い浮ぶ。

「日本男児」と「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」の印象深い詩の表現の中から、一部を引用してみたい。

塩っぽい城の中身をのぞきこむきりぎりすの表面の点滅を繰りかえす
健気なみずうみからわたしのあの世のみずうみに
いけません危険すぎます
社交的でまばたきし、手袋のほつれにまで余念がない
なかに氷の詰まった葡萄が青空からとめどなく吊り下がる   「日本男児」


そのきらきらはまだあるの。あんたの脳味噌の地図のなかで、デニーズのあった場所どこもかしこも、に、いまはその光りがあるのよ。しわしわの桃色の地図のなかで、やっぱり光ってるわよ、めじるしの星みたいに。ちゃんと、わたしはまだそこにいるわ。(中略)
Family Mart。わたしたちの頭は情けなく、3つの風船みたいに浮かんでいた。ここはおそろしいみずうみ。それ以上進んではいけません。(中略)
出せるじゃない、血。
うれしそうだった。バケツいっぱい氷水のいちごシロップをぶちまけたみたいだった。
ね、なんだろうね、このかたつむりみたいなの。あっうごいた。いまうごいた絶対。動いたから、それ、いれよう。
ね、血、赤すぎてよくみえない、なんとかして。しかたない、殺して以来床に転がっていたポットをひきよせてなかに湯を注いで洗うとはねて、熱い熱いとまた苦情。(中略)
わたしたちをもまた、きっと食べてしまう、死体のような人たちにわたしたちはありったけのハンバーガーを売りつける。だから なかよくしましょう。
                           「ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ」


本書を読み終わった後で、「町」と「率」の同人による栞文を読んでみた。土岐友浩、望月裕二郎、吉田竜宇をはじめ、瀬戸の友人たちの心の籠もった理解ある文章に感心する。その中で、先に名前を挙げた三人の批評が目を引いた。歌集を読む前に栞文を読んでいたら、今さら私が駄文を書く必要もないと思っていたことだろう。

「率」3号(2013年4月刊)にも目を通した。瀬戸の歌と評論が載っている。その評論「『愛』について語るときに『私』が語ること」は、「率」同人の藪内亮輔の「岡井隆ノート1」の「愛」を試すという「内輪向け」の発表姿勢に、もの申すという形で書かれたものである。その内容の詳細はここでは紹介しないが、文中には塚本邦雄への偏愛が告白されている。本書を読めばそれは自然と理解されるのだが、本人の口からはっきりと言われると、却って拍子抜けする感じである。

塚本は穂村の歌をほぼ全面的に否定した。では、瀬戸の試行をどのように受け取るだろうかという思いを、拭い去ることができない。もっとも、塚本が穂村を否定した意味は、徹底して思考されなければ、その真意には届かない。

いずれにしても、瀬戸夏子の第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』は、短歌だけではなく、詩の世界にも波紋を投げかける問題歌集である。刊行されてもうすぐ一年が立つが、ぜひとも他ジャンルの人も交えて批評会を行って頂きたい。



13/06/21 up
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